サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

舞台『駆けはやぶさ ひと大和』感想

まあ結論から言うと大号泣でしたわ。

でもたぶんあんまりこねくり回した感想はかけない。泣いてたからあんまり理解が追いついていないので。

 

もふ虎は死にゆく者の物語で、つむ鴨は残された者の物語で、かけ隼は生きていく者の物語だったのだろうと思う。生きているからこそ憧れ、死ぬ覚悟すら持って生きて、他者にそれを語る。そして描き、残す物語だった。死のう、死にたかった、と来て、最後は生きようという物語。

 

かけ隼の土方歳三斎藤一新選組の話だけあってとても人間臭い。なんというか、もふ虎は憧れられる者として描かれていたし、つむ鴨の土方は超えられぬ壁で斎藤は抜け殻(会津から見れば戦神)のよう。かけ隼でやっと、なんというか、落ち込むこともあるし、乗り越えなきゃいけないものもある、そういう存在として描かれたんだなって思った。

登り切るべき坂道は残された斎藤にとっては決戦の地たる田原坂であり、鬼として生き切った土方にとっては黄泉比良坂だったわけで。まほろばとは、また生き直さなければならない斎藤は未だ探し続け、部下がその逝く道を共した土方にとってその景色こそまほろばだったんじゃないかと、おいおい泣きながら思った。

 

主人公たち三人が良かったな。お調子者の中島、穏やかで優しい市村、真面目で向上心のある横倉。少年漫画的でとてもわかりやすく、そしてそれぞれを応援したくなる。愛おしいキャラクターだったと思う。あの三人の中で横倉だけが、あの墓に参ることができないことを悲しいと、2度目に観た時に思った。

花村さんの少年のような声音がまた良く、未成熟感が中島登という人がこれからも生き、そして己が為すべきことをなして行くのだということを感じさせる。

 

かつて、応援していた(今もしているけれど。ここでは役を降りたという意味に取って欲しい)俳優が沖田を演じていた身として、沖田の死にゆく様はあまりに悲しく見えた。

 いや、むしろ沖田くんが悲しいや悔しい、諦めすらも超えて死んでいくのが辛くて仕方なかった。沖田くんは刻一刻と近くなる死の気配を察して生きてる。剣に生きた人が最後に望むのが家族のように共にあった人との再会なのが、人間であるということを見せつけられているようでどうしても悲しい。長身の沖田くんを小柄な市村が抱き、頬を寄せる(ように私には見えているし見たい)姿が切ない。泣けるポイントはたくさんある。けれどどうしても一つを選ぶなら私はここを選ぶ。

 

死にゆく白虎隊の想いを一人継いだ飯沼貞吉。失われた故郷の全て(例えば松平容保公や新選組という集団への忠義、あるいは会津藩の誇り)を継ぎ、失われゆくもののふの時代へ殉ずることを選んだ中村半次郎をも背負う斎藤一。歴史が止まることのない流れであるなか、途絶えるものを継ぐ姿を描き続けたシリーズは、やっと語り継ぐ人を主人公に据えることになった。横倉は近藤の想いを継いだのだろうし、市村は沖田の想いを継いだ。それは土方に託され、中島が描いた。

残されたものは、殉ずることを選ばないのであれば、生きなければならない。生きなければならないということを、その継いだ物語を「幸せだった」と言える中島の、なんと主人公たることか。

笑いながら新選組を語る近藤、土方、沖田の幸せな姿を、その背中を、主とした中島が涙ながらに見つめるその幕引きは、あまりにも終幕に相応しいものだった。

 

正直いつもの通りの超時空大河ドラマであることは否めないのだが、そして気にならないと言ったら嘘なのだが、でもどうでもいいかなとは思ってしまう。それほど揺さぶられるものがあるし、そういう力のある作品だ。

 

観ることができて、本当に良かった。

私は、その僥倖に感謝している。

『ひかりふる路』感想的なもの

朝美絢さん。

朝美 絢(Jun Asami) | 宝塚歌劇公式ホームページ

(もっと可愛い画像もたくさんあるからGoogle先生に訊いてね)

 

はじめは順当に望海風斗さんを観ていたんだけれど、こう、チラチラと視界にどう考えてもとても、有り体に言えばハンサムな顔が見えるの。

気づいたらその方を目で追っていたわ。

タカラヅカとは恐ろしくも、あれだけの人数がステージの上にいらっしゃるというのに、全員が女性なの。普段のわたしは銀河劇場やシアター1010のステージの上に男性が溢れかえりそうな(いや、もう溢れかえっているわ)舞台ばかり観ているから、なんて言うのかしらね、そう、信じられなかったわ。

誰一人として男性がいない、それでいて目前にハンサムがお芝居をしているこの状況。

望海さんが高らかに彼女(表現方法がわからないの、男役のタカラジェンヌのことは何と呼ぶのが正解なの?)を呼ぶ。「サン=ジュスト!」わたしは覚えたわ。覚えてレビューまでの幕間で確認したわ。

それが朝美絢さんだったの。

有り体に言って、Google画像検索でもハンサムだったわ。そして普段の彼女は、あまりにもなりたい顔だった。彼女は『わたしの男性の好みの顔をした女性』という、稀有な存在すぎてわたしはレビューを観ながら震えたの。

『Hard Knock Days』は最高の極みだった。男性アイドルのようでありながら女性、陳腐な表現になるのだけれど、最高だった。

 

取り巻きの一人になりたい感じと言えばわかるかしら。

不良グループの参謀が朝美さんなら、その指示に忠実に従う駒になりたい。だいたいこういうことを言うと、一人を除いて「わからない」言われるの。

 

色々ね、本当は書きたいことがあったのよ。でもどうしても、「朝美絢さんの顔になりたい」というところに落ち着くものだから、もうそれを言うだけのエントリにしたわ。

 しかしわたし、写真撮るの本当に下手ね。

 

は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次の公演も観に行きてぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

『ピカレスクセブン』と『only silver fish』感想

とってもポエミーな感想

 

ピカレスクセブン

めっちゃくちゃに毛利さんっぽいなと思った。

例えばマクベスの死に方、完全にミュージカル薄桜鬼だった。彼が演ずる役が階段の上に立ち、彼を討つ役目のキャラクターが階段の下で客席に向かって刀を振り下ろす。マクベスは風間で、上演されることのなかった永倉新八篇だった。(他に言ってる人もいたので良しとする)

ありそさんがリチャード王であることや、ピーターパンを他人と思えない井俣さん、キュータマダンスの春日局などなど、これまでの社中作品や毛利さんの携わった作品を観てきた人や東映にどっぷりしてきた人にとって微笑ましいシーンがたくさんある。

登場人物の立場がくるくると入れ替わるところもとても毛利さんっぽい(悠久を思い浮かべていただくと良い)のであるが、なにより毛利さんの描く男同士の関係性は、相変わらずである。殺されるのであればそれだけの価値のある男に、救うのであればその男の生を全て背負って……死が二人を分かつまで続けられる得物に乗ったやりとり、非常にめんどくさい男の関係性ここに極まれりといった風情である。

だってマクベスの孤独を救うのが、褥から地獄まで寄り添うジャック・ザ・リッパー(女性です)ではなくて、孤独という生の檻から解き放ったイエミツなのだから。

あと単純な話として、東映の元ヒーロー(役者)たちが極悪人として見参するところにテンション上がる。二律背反。

 

ただし、求心力はこれまでと比べ物にならないくらい弱い。

シーン一つ一つキャラクター一人一人のパワーであって物語の整合性はないと思う。説明の足りない成田良悟の小説があったとしたら、それはきっとこんな感じなんだろうなと思う。

あまりにも知っているべき前提条件が多すぎるし、イエミツとマクベスのラストバトルで全てを解決しようとしすぎている。ミスリードとして活きてよかったはずのもろもろ(黒タイツとか)もそのままであって、超自然的な力の近くにいる良子さんというのもテンプレ。

社中20周年、東映コラボ……なにも一緒にする必要はなかったのにね、とは思ってしまった。

 

なんていうか、秀吉には秀吉の織田信長があり、家康には家康の織田信長がある。家康にとっての織田信長それは、永遠に憧れるべき信長。そういう感じからのヤイサヤイサ、ディベード挟んでヤイサ、そんな感じの舞台。

で、やっぱりいろんなところに好みの色々があるんだよなあって思う。

 

・only silver fish

 丁寧な作品だったと思う。

ミステリーなのでネタバレは避けたいのだが、無理だった。

 

ファンタジーの可能性をチラつかせながら全くファンタジーじゃないところに、非常に好感を持った。

丁寧に、西田色は最低限に、ミステリーとして物語を描くために注意を払って作られたのだろうなとわかる舞台であった。とても引き込まれた。集中して見ることの出来る、ミステリーであるから全ての情報を拾おうとするのは当たり前かもしれないが、それを問題なくこなせそうでやはり術中にハマるような、そういう舞台だった。とても面白かった。

 

それでいて、とても古典だった。これもまた、良い意味だ。

自然に集まった男女の中から自然発生的に事件が起きるのではなく、意図されたある種作者の恣意的な面々が集まっていても、それが「そういうものであるから」受け入れられるのが古典だとして、OSFはそういう意味で古典であったと思う。そしてマシューを主人公であるとしておきながら群像劇としてマシューの視点に観客を固定させなかったことで、種明かしするまでの緊張感を保てたような感じもする。いっそ探偵でもよかったと思うけど、それこそあまりに作為的だろうか。

 

愛の重い松田凌、好きだなと思う。重すぎて受け入れてもらえないまま孤独を深めて行く松田凌という役者が良い。

私はラトーヤがマシューをひっぱたいたこともよくわからなかったのだが(孤独なのだから他人を巻き込むのは当たり前だろう。巻き込まれた側としてひっぱたきたくなる心情は理解できる)ケビンがマシューを「狂っている」と揶揄(揶揄で表現があっているかどうかは自信がない)することに関しては全く理解できなかった。

いやいや、全ての引き金はあなたの妹でしょ。誰が狂わせたか明確でありながら何もしてこなかった、実家の金を食い潰した可能性すらあるあなたに言えた事じゃないでしょ。と思う。

その反面エミリーには理解を示せるなと思った。エミリーはわかりやすいから(そのように演出されているから)。不安に思っているからマシューに問うし、ロイと居れば滲み出ちゃうし。

 

映画がどのようにこの舞台の印象を変えてくれるのか、楽しみにしていようと思う。

これから解決されるのかもしれない疑問として、冒頭のマシューが本の内容を自分に置き換えてなぞるシーンで、「マーティン」というのは本の主人公なのか、「メアリ・クリスティ」というのはアガサその人なのか、メモとして残しておく。

 

しかしこんな可愛くない感想ある?

もっとどこの誰々がどうとか書けばよかった。

 

 

追記

愛の重い洋二郎さんも最高だなと思った。

四谷怪談 深読みまみれの感想

また自分ルールを破るがこれから年末までゴリゴリ労働しているのになんのフェイクにもならんくない?と思ったし、何よりこれを見て行こうと思う奇特な人がいるかもしれないし、もう投稿します。

 

まず四方向から舞台を観るというところがいいよね。逃げ道の無いそれは閉じられた環境であった事件の象徴にも思える。

不勉強で申し訳ないが、下地は歌舞伎の『東海道四谷怪談』で良いのだろうか。ウィキペディア情報では初演時『仮名手本忠臣蔵』と合わせての上演だったとある。これが1825年上演、もう一つのテーマとなる事件発覚は2002年、史実上の吉良邸への討ち入りが1703年、四谷怪談の初演が2015年で、今年は2017年である。江戸文化華やぐ元禄から、虚構の時代ですら終焉した2000年代まで、ぶっ飛んで描くというわけであるから相変わらずである。

 

客席という完全な他者。視線の檻。まなざしの地獄。全方位客席ということは、そういうことなのだろうと私は思っていた。

 

四谷怪談と題材の事件に、関連があるのとはまた違うのだと観劇後考えた。憎悪、嫉妬、愛情、慕情、疑心、忠信という意味では近いものがあるかもしれないから、組み合わせるに至ったのだと思うのだけれど。そこに忠臣蔵が入ってくるのは、やはり忠臣蔵が共に上演された歴史を持つからだろう。

四谷怪談は弁護士のおじさまが差し入れた本であり、瑠璃子と少女が現実から逃避するツールであると解釈した。役を与えるというのは主人公であるお岩の特権であり、同時にそれは登場人物たるお岩よりも上位にいる読み手の少女の特権である。逃避する場所があるそれ故に少女は己を演ずるということを選ぶことができ、弁護士に語ることができたのだろうと思う。

一学と少年が同じ演者であるということもまた、少年が選択した結果であるなら(これは少年が生き延びていて欲しいという私の願望であり、顛末について調べた結果ではない)、少年が生きているということにはならないだろうか。一学のあり方が少年の理想だったのかもしれない。誰かを、お岩を、少年の母を一途に想いそのために抗いたかった少年の理想が一学だったのかもしれない。一学という人物に投影され、一学という役を頭の中で演じ、語る少年が花道の奥にいたのかもしれない。お岩と一学の対話が、瑠璃子の母・静と少年の対話に切り替わるシーンは、私にはその比喩に見える。お岩が静との二役であるのは「母」の比喩で、それが「少年の母」を殺した「瑠璃子の母」であるのは「少年の母」がもう存在しないことを示している……というように。

同じ事がくうにも言えると思う。少年の理想が一学なら、少女の理想はくうのように無邪気なままでいたかったということなのだろう。

思えばお岩がどうして数多くの男に想いを寄せられているのか、考える必要がある。

それはお岩が少年の母であり、伊右衛門の妻という主人公であり、物語の読み手たる少女の投影という側面を持っていたからだと考える。少女と対峙するお岩が、容疑者として役割を果たすシーンがある。これはこの舞台が少女の語りによって形成されているからだと私は思う。お岩は主人公として読み手のもっとも近いところにおり、幾度も姿を借りて少女に問う。主人公とは読み手が物語に埋没するための視点であり、その主人公の姿で少女に問うという行為は自問自答に他ならないと考える。お岩が少女に問いかけるとき、お岩は主人公であり、少女自身である。「この人たちの子どもがいるわ」と言った彼女が(あるいは少年が)お岩を見て悲鳴をあげるのは、事件に対する回想のクライマックスでお岩の形をした己に(あるいは母に)己の罪を指し示されているから、と考えられないだろうか。

少女と二役であるくうの父・大石内蔵助は少女にとっての「愛すべき父」であり、浅野内匠頭は「浅ましい父(お酒を飲む父のことは嫌いだった、というのは少女の言だ)」の象徴であったのだと考える。少女の生まれが浅野内匠頭の子種であるというのは、容疑者による度重なる「父親の血」の刷り込みの結果のように見える。父親というのは産みとは別の存在である。産んだという事実を伴わない存在という意味で、父親とは己が(あるいは法が)決めると言える。しかし一方で浅野内匠頭は只野(少女の父)との二役であり、少女=くうは本来の血筋から逃れることは出来ないということになる。日本社会においては父の系譜の中に母を取り込むことが一般的に行われており、父の系譜が己の(少女の)出自となる。産みという事実ですら系譜の前にはもみ消される。こうして育ったくうはお岩を母と呼ぶことはしても、本当の父について知ることはない。それはこれまでの生活の中で明示的に父として示されている大石内蔵助を受け入れているからに他ならないと考える。少女が常に持っていた写真が父の肖像であることは、少女=くうの「愛すべき父」大石内蔵助が確定していることから常に観客に示されていたこととして解釈することができるのではないだろうか。

また、お岩が読み手としての少女の投影である時、父に愛される者としてのお岩であったと考えることもできると思う。だがここはだいぶ流動的というか、お岩が四谷怪談の登場人物であるがゆえに解釈としてブレるポイントだなとも思う。

 

少年については難しいなとも思う。少年という形で描かれているだけで持たされている役割はたくさんあるように思う。この場合、役割というのはその事件の中で描かれていなかった幾人かの立場の人という意味である。

同時にお岩についても難しいなと思う。パンフレットの「柵端」だけ見ると、ストーリーテラーとしての彼女に役名が付いているように思う。でも本編を見ると彼女は少女(あるいは少年、そして瑠璃子)との対話が主だっているようにも思えるし、読み手の我々が埋没すべき主人公であると私は感じている。

 

 神様はいるか、という容疑者の問いに、いると少女は答える。容疑者は信じていないと言うが、いると答えられた少女もまた陳腐だがすごいと思う。あの状況下で、という単純な感想として。

 

われわれは、今や、第三者の審級の意志が分からないだけではない。そもそも、第三者の審級が存在していないかも知れない、との懐疑を払拭することができないのだ。

p139 『不可能性の時代 』岩波新書 著:大澤真幸

 

客席という完全な他者。視線の檻。物語の傍観者ではなく、事件に気づかなかった者として、もしくは四谷怪談の読み手として客席はあるように思われる。

判断は、客席に委ねられる。客席に座る演者はこの時第三者である。第三者である客席の目は少女がこれから晒されて行くものである。

 

一旦は撤退した第三者の審級が、言わば裏口から——独特の変形を伴って——回帰する可能性があるのだ。自由であること自体への命令が帰属する他者として、第三者の審級が再生するのである。

p147『不可能性の時代 』岩波新書 著:大澤真幸

 

己自身を、と何度も舞台上では言うのに、観客のまなざしからは逃れられない。まなざしに晒されて生きて行かざるを得ないのだろう。

 

以上、感想というより考察の類になってしまった文章でした。二番煎じだったり論理が破綻していたりしたらごめんなさい。あと単純にキモくてごめんなさい。

ついでにちょっと、ぼんやりとした感想を。

 

一学がとても美しい。あまりにも美しい。嫉妬や欲を持っているのにそれを超えてお岩を想う姿ががいっそ高潔であるとも思える。殺陣の鬼気迫る舞のようなそれも、一学の持つ一途さというある種の狂気のようで、美しい上に少し恐ろしい。

少年が容疑者に抱かれて、視線の移動だけで萩原家や容疑者を確認するその目がとてもよかった。瑠璃子を見るときの軽蔑するような目、只野を見るときのどうでも良さそうな目、容疑者を見るときの憎むような目。少年もまた、恐ろしいくらい美しい。

お岩と再会した伊右衛門の優しいこと優しいこと。二面性のある男、として表現されていたはずなのに、お岩を失ったと思ってからそれがどんどん剥ぎ取られて行くのが恐ろしいくらいだった。

お岩もまたそうで、語りかけるときとお岩と瑠璃子の母ではもう全く別。それを難なく切り替えて行く恐ろしさ。

大石内蔵助の存在感がさすがだった。この人もまた腹に一物あるわけだが、それが徐々に感じ取れると言うか、初めからどんと二面性を示される伊右衛門とは違ってゆっくりと流れ出す。これもまた恐ろしい。

個人的に直助がすごく好きだった、わかりやすくチンピラの小者であるところとか。赤穂藩の印を見せつけた後の悪い顔とか。

 

気になる点としてはイエモンの世代じゃないので、イエモンの歌?を歌われてもどうしようもなかったというところ。あれ笑うところ?

 

金木犀が 流れて来たときのキタキタ感がすごかった。あぁ、四谷怪談を観に来たのだ、という。

 

非常に疲れる舞台であったが、同時に見て良かったと思う作品であった。考える余地をあくまで残し、観客もまた巻き込まれるというその描き方が、当事者としての意識を観客に持たせるという意味で、恐ろしい作品であったと思う。

舞台挨拶に行ってきた(平ジェネfinal)

キュウレンがあまり面白くない(体感)間に始まったビルドがめちゃくちゃに面白い。

まず、男性が二人並んで戦うということそれこそがメ……を思い出させるので加点である。

というか、仮面ライダーは割とそんな感じなのかもしれないと、映画を見て思った。

 

ビルドに対する批評であるとか、そういう小難しいことは特撮専門で書いてる人のところを読めばいいと思うので私は何にも書かないつもりでいる。だが一つ思うのは、いろいろインタビューやヒロビを読むと、ビルドとはこれまでの平成ライダーの美味しいところ取りなのかな、とは感じている。

見てなさすぎてわからないけど。

ワカハイ学科の必修(あるいは選択必修)の科目であることは間違いないと思うのだ。

 

というわけで、感想を綴る。

 

かつて主人公であった永夢(それまでのレジェンド達)と、今の主人公である戦兎は、すでに「仮面ライダー」としての人格が確立し、それに対し龍我が「映画の主人公」として成長物語の主人公に据えられている構図がとても美しい。

戦兎は目覚めてから一年間ビルドとして戦ってきており、永夢もまたテレビシリーズ一年間を通してエグゼイドとして成長していることを考えると、戦兎が本編で龍我の導き手として在ろうとするそれは「映画で龍我に仮面ライダーの在り方を見せてくれるレジェンドたち」と同じなのだなと思う。戦兎はもうある程度の成長と成熟を経ているから、クローズになったばかりの龍我の成長が描かれるのは、今後龍我がより戦兎の相棒として並び立てるようになるその一つの布石になるんじゃないかと興奮する。本物のメ……アになってくれ。

あと戦兎の「ラブアンドピース」は「ラブアンドピース」のために戦っていないと一つの人格として危ういので、それを言い聞かせてる感じも切ない。葛城との因縁も、いよいよもって現実味を帯びてきたことであるし。

エグゼイドを見てこなかったので申し訳ないのだが、パラドの子供のような純粋さと永夢の穏やかな関係がとても魅力的だった。記憶が無くアイディンティティが危うい戦兎と、冤罪や因果を背負う龍我には是非とも互いを叱咤し、支え合い、背中を預け合う救い人であってほしいと考えているのだが、パラドと永夢はネタバレを読んだところ運命の双子 - Διδυμοι -(Sound Horizon official website)なのでは?と感じている。永夢もパラドも元気そうで本当に何よりなんだけれども。

仮面ライダーって、「仲間の結びつき」推しの戦隊と違って、「個と個の結びつき」みたいなのを重視しているような印象が私にはあって、主人公はもちろん全ての登場人物と絆を深めて行くけれども、そのなかでより濃い結びつきを持つ相手が一人いるのが定番なのかなと思う。パラドが一生懸命「永夢!」と呼びかけて永夢がずっとパラドのことを心配しているのとか、ちょっと重い兄弟のような印象を受ける(ネタバレ読んで兄弟どころじゃねえなと思ったけれど)。

そのあたり、戦兎と龍我はこざっぱりしてるよな。そういう気負いしない関係が二人が結構大人で自立した人生を歩んで来た感じがある(他のライダーの背景をあんまり知りません)。

 

龍我の達した結論もとても彼らしくて良い。

彼は別に2号ライダーであるし、彼の背負っているドラマを思えば(もしくは人間の感情で考えれば)「ラブアンドピース」のために戦えなくて当然なところを、「自分を信じてくれた人のために」という“裏切りようのない理由”みたいなので戦うことを決めて戦兎のところに赴くのが相棒という感じ。このへん見てるとき「なんでもかんでもメ…イ…って言ってごめんな……」と思っていた。二人はべつにワールドリフォーミングの後の世界で生きてるわけではないのだから、二人は二人らしく相棒になって行くんだよな……とジーンとしていた。龍我は戦兎のことなら信じても良いと言っていたし、同じことを戦兎も思ってる(仮面ライダービルド 第10話 滅亡のテクノロジー | 東映[テレビ])。そもそも龍我の冤罪を最初に信じたのだって戦兎だ(仮面ライダービルド 第1話 ベストマッチな奴ら | 東映[テレビ])。

しかも、

運命のベストマッチ

仮面ライダーである桐生戦兎。しかし、彼にはここ1年間以前の記憶がすべて欠落しています。『仮面ライダービルド』の1話のポイントは、既に仮面ライダーとして能力を発揮する戦兎が、その記憶喪失の謎を解くためのキーパーソンである龍我と出会うところにあります。その龍我は、よりにもよって刑務所から逃げてきた脱獄犯。無実とはいえ罪を背負った龍我との出会いをキッカケに数々の奇奇怪怪な出来事が巻き起こります。そんな二人の運命の出会いを、絶対にお見逃しなく!

仮面ライダービルド 第1話 ベストマッチな奴ら | 東映[テレビ]

「運命の出会い」だったわけだ。ックゥゥ〜〜誰に仕組まれた運命なの? スター…なの? Moira(Sound Horizon official website)のみぞ知るの? ス…ークなの?

 

全て終わって帰ってきた二人が一つのベッドに倒れこむシーンがあって、「別にメサ……じゃないんだよな、うんうん」と納得(?)したはずだったのに、急に珀と鋭利みたいなカットが大写しになってビビったことは認める。

 

あと書き忘れていたのだが、オーズのオタク大丈夫? 息してる?

オーズ、入野自由の声が聞きたくて何度か見た程度の私ですら途中泣けた。

映司が掴み取ったそれは映画だからこその奇跡であり、奇跡であるから永遠でなく、アンクの切ない表情とともに消えてしまうところがもう涙無くして見れない。終わりゆく平成の中で映司とアンクが再会できたのは、運命のようにも監督の愛情のようにも思える。これから二人がまた再会できるのだろうか、また並び立つことができるのだろうか。運命は残酷だ。されど彼女を恐れるな。Moiraが戦わぬ者に微笑むことなど決してないのだから。

 

龍我の成長物語として本当に熱かった。もちろん龍我の成長だけでなく戦兎の不穏な背景を匂わせる、正真正銘ビルドの映画だった。

なんだか今回はいろんな人の感想のキメラみたいな文章になってしまったが、運命に執着したキモキモブロガーはそう多くはないと信じて公開する。

 

映画『爪先の宇宙』感想

映画『爪先の宇宙』を観てきたので感想を述べる。

うまくリンクが貼れなかったので、ストーリーを転載すると以下のようになる。

漫画配信アプリ「comico」連載の同名漫画を実写映画化。固く心を閉ざし、人とのかかわりを絶って生きてきた主人公の再生の物語を描く。高校時代に親友から放たれたある一言がきっかけで心を閉ざし、親との関係も原因で思ったことを口に出すことができなくなってしまった吉河亜紀。自分を変えるために小さなカラオケボックスでアルバイトを始めた亜紀は、バイト仲間との交流を通して少しずつ変化していく。

爪先の宇宙 : 作品情報 - 映画.com

ちなみに、いろいろ思うところはあるが私はこの映画嫌いではない。なんなら少し泣いた。

 

・ダブル主演という形をとったことについて

主人公はアキちゃん(演 桐嶋ノドカ)だ。そのため、まずはアキちゃんがトラウマを乗り越えていく必要がある。アキちゃんのトラウマはそれ即ち高校時代の友人との揉め事である。アンジ(演 北村諒)はそのトラウマに対するアキちゃんの向き合い方に口を出したりというよりは、トラウマに苛まれたあとのアキちゃんに関わる「うまくいかない人間関係」の代表である。(うまくいく人間関係はユメコさん)

アキちゃんの社会復帰を助けるという意味で、アンジのぶっきらぼうさに自らアキちゃんが歩み寄らなければならないという意味で、ある種アンジの存在が訓練であったというのはストーリー的に理解できる。

が、それだからと言ってアンジが主演の一人となるのはなんかよくわからん。主演ならもっとアンジの見せ場あってもいいと思う。上演時間は67分。あと30分頑張って、アキちゃんとアンジの始まりかけの恋みたいなの見せてくれるだけでも良かったのに。

映画では若干アンジの家のこととか将来のこととか匂わせて描いて、アンジがアキちゃんという不安定で変化して行こうとするものに出会って、少し変わって行こうとしている(=成長)みたいな描き方してたけど、それも薄くて主演というには物足りなかった。

アンジの主演感が薄すぎて消化不良。

 

・唐突な恋愛フラグ

例えば調理場担当のアンジの隣で皿を洗うとか、事故きっかけでアキちゃんのトラウマをアンジが目の当たりにするとか、そういう地味なフラグは序盤から立っている。漫画も確か立っていた。

ユメコさんが前髪をいじって来たアキちゃんの変化に気づいて、こう言う。「男子気づくかなあ」私は思う。今までのどこにアキちゃんがアンジに惚れる要素があったのと。今にして思えば「上手くいかない人間関係」であったためにアキちゃんが積極的に関わろうとして、それが恋愛的なやつにすり替わったのかなとも思うけど、そんな事推測しなきゃわからんというのもアレだし、推測ということは私の深読みでしかない気もする。

でも最後急にトラウマを乗り越えたアキちゃんがアンジに前髪のことを訊いて、アンジがアキちゃんの好意をちょっと察する。で、映画が終わる。消化不良!

例えば少しずつ恋愛しながらクライマックスでトモちゃん(アキちゃんの友人、トラウマの元凶)と和解し、それをアンジが見守り、初デートの約束へとかだったら良かったのにと思って漫画読んだが、そんなことしたら原作丸無視ということになりかねなかった。

 

・やりたいことはわかる気がする

まあまあ、つまりこういうことなんじゃないの?

 何一つわかってない? だとしたら済みません。

私が言いたいのは、「若い女子向けスイーツ映画みたいに綺麗な登場人物と綺麗な色を綺麗に撮りたかったんじゃないの?」ということだ。

(なぜ近キョリ恋愛のドラマのリンクかというと、まともに見た若い女子向けがこれしかないから)

ときおり挿入されるスーパーボール演出や、雨に打たれていろんな光を反射する窓とか、そういう事かなと思った。

星モチーフを連想させたいんだったらこの項目は私の深読みだわ、ごめん。

序盤斜めから登場人物のことを映したり、画面揺らしたりしてたのが後半おさまって、だいぶ見やすい感じしたけどあれなんなんだろうな。シャフトかよと思ってたけど後半はそんな事も忘れてた。

 

・曲

映画の途中で主題歌とか流れてくるんだけど、その曲聴いて「ノイタミナみてえだな」と思ったら、ほぼほぼ正解だった。

ryo (supercell)のこのノイタミナ感な。

結構好き。

 

 

……と、まあこんな感じだ。

正直、ネットの漫画にありがちな「やたらトラウマを持っていて親とも上手くいってないヒロイン」アキちゃんも、性格のキッツいトモちゃんも、絶妙に感情移入できないのだが、この二人の関係性は、高校時代(ともすれば中学生時代)の閉塞的な関係性を彷彿とさせて仲直りの場面で少し泣いた。

 

以上!

 

『ジャー忍』『青エク』『Kステ』感想

いや舞台行けよみたいなね、気持ちにもなるよ、わかる。

タイタニックすらキャス変するからね、それについて書けってわたしの中のわたしが言ってる。

でもさ、また抜歯したんだよね。前回割とメソメソしたんだけど今回超余裕。痛い思いはしたけど前回に比べたら屁でもないから2回目というのはすごい。

 

そんなわけでしばらくぶりに舞台を観た。面倒なので一気にまとめる。なぜならモチベ皆無からの舞台週間だったからだ。

行くまでめちゃめちゃ具合悪かったのに、席着いたら急に元気になったのでまあそういうことだろう。

 

先に謝っておきたいのだが、Kステの感想がクソほど長い。そしてキモい。マジでごめんなさい。

 

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