サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

『イノセントデイズ』MV感想

 

若者の夢を描くときに、熱く描くか静かに描くかのパターンがあると思うが、これは静かなパターン。バラードなのだから当たり前なのだけど。

5人それぞれに設定を付けてあって、それが「Sexy Zone」の5人にも通ずる設定であるというところですでに監督に乾杯という感じはある。

 

大抵のグループや大抵のコンビや大抵の作品に執着するような人間は、その中だけで完結する小さい人間関係に夢見ている節があると思う。

少なくとも私はそうで、5人が、5人の世界で健やかであることこそが大切である。きっと他の、どんなグループの(あるいは座組の)ファンも同じだと思う。

5人が美しい家で5人だけで暮らし、淡く美しい色の服を着て、5人だけの夢によって5人だけで構成された世界を揺らすという、その閉じられた関係性がまさにそれ、おたくの見る夢であった。

役としてフェイクが混ざっているとはいえ、彼らの演じる役は彼らにどこまでも近くて、重なって見える。であるからこそ、あの美しい家が「Sexy Zone」というグループをシンボリックに示しているように思えて、あの家が5人だけの小さな世界に見えた。

他の人間が一切登場しないところもまたいい。「塾講師」「妹」という外と関わる設定はあれども、セリフにすら一度も出てこない。見せたいのは5人、というのがはっきりしてる。

 

Sexy Zoneって、ふまけんが出会ったことを当人たちが運命だと思ってることもさることながら、それを弟組3人が良しとした上で、5人出会ったことを限りなく運命に近しいものとして捉えてるところがあるようで。

おたくはすぐに運命を感じ、信じたくなる生き物だから、それが許されるというだけで居心地が良い。

本当に、定められた出会いであればと無邪気に願ってしまう。

 

「小さな世界」と「運命」の、永遠であってほしい2つが、変化していくのが青春であるという風に考えるのであれば、これはまさに青春を切り取ったMVであったし、けれどその中でもなお、世界も運命も変質してはいかないという点で理想だったと思う。

夢に向かって変化して行くことと、関係性が変質することは違うというような。(メイキング見たらふーまくんも言ってたけれど)

家という箱がなくても5人の世界は確かにあって、それは関係性という結線によるものなんだなと感じるのだ。

 

メイキング見ていて、青春のX軸が「永遠」と「変質」なら、Y軸は「甘い」と「苦い」なのかなとか(そうちゃんが監督に言われた、と話してた内容とか)思った。

楽しいことばかりではなかったということはみんな知っていて、それでも5人でと言う役割をそうちゃんやマリちゃんが担うことが、「いま5人である」という象徴しているみたいだ。

 

いま、5人であること。これかも5人でやっていくんだということ。「次」を、「また」を、言葉の中で少しずつ見せてくれること。色々なものが形を保てなくなる世の中で、こんなに嬉しいことはないと思うし、こんなに信じたいと思う言葉もないと思う。

永遠などない。そんなことはわかっている。

けれど出来れば、信じさせてほしいと思う。

 

──と、日々に疲れたおばあちゃんはMV見ながら思いました。

 

舞台行ってなさすぎてまさかのMVの感想。

メサイア月詠乃刻感想

言っておきますが、めちゃくちゃに気持ち悪い感想?妄想?です。なぜなら白崎が卒業した今、万夜様(と小太郎)を推しているからです。(ここは観た後に書いています)

 

〜これまでのメサイアと私〜

メサイアだ。

いやーメサイア来たよ。来れて良かったよ。ショーマストゴーオン、13ヶ月目のユートピア目指して。

白崎が卒業してしまったいま、悠久のDVDを観ていて、私はいつきのこと好きだったんだなぁと思った。間宮がいなくなって、いつきが来て、いつきが間宮のあとをなぞって。それで、いつきのことが私は好きだった。

なので、卒業したはずのいつきがまたいるのもなんか、嬉しいなと思ってる。「その男の名は…加々美いつき」だけで興奮してiPhoneを投げそうになった。

このツイート、正直ちょっと泣いた。少ない言葉が、サクラのいつきらしく思えてしまって。

万夜様と柚木が、小暮と雛森が、早々に己の過去と向き合うことになるらしい本作。あの強烈とも言える暁を、美しい悠久を見た4人ならきっと良い救世主たる関係を演じ切ってくれるのではないかと思っている。欠けることなく。

そう、欠けたることなく。

つくよみというそれが、黄泉の坂を駆け上がって、黄泉を見たその眼球から生まれたのなら。坂の下を二度と見ないような生き方をしてくれたら良いと思う。夜を照らす月の如し、だ。

アスファルトに立つ僕と月の間には何もないって知った

『ナイトフィッシングイズグッド』サカナクション

ここまでは観る前に書いた前置き。というわけで、以下は見てきた後に書いた感想である。例のごとく、ネタバレに関してはモリモリして行くスタイルである。

 

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『極上文學』の感想的なもの

誰でも一冊は本を書ける、人生という名の本を!

もっと読ませてくれよ、つまんなかったら破り捨てる! 傲慢にっ

    月永レオ 『あんさんぶるスターズ!』より

大元のストーリーは『風の又三郎』にのっとり、具現師の方達はみな子どもとして客席を駆けていた。競争に客を巻き込んだり、ふざけてみたり。「あーー」という発生の練習をして、それでふざけているものだからわからなかったが、始まってみればそれが風の音だった。

 

語るための「私」という役があった春琴抄と似た、「語り師」が物語を読む。『風の又三郎』を軸として、入れ子の物語として『よだかの星』が描かれていた。

一郎や、嘉助や、三郎が、先生がみなに読むように言った「よだかの星」が馴染んでいく三郎と馴染めずに星になったよだかの対比なのかなとか。

人は、異なるものを受け入れることがとても難しい生き物だ。だからこそ、わずかに心が触れたとしても、ちょっとしたことで離れてしまうんだなとか。

 

宮沢賢治という人の持つ物語性が、色濃く反映された作品だったのだろうと思う。極上文學では本それ自体が魂であり人であるから、また逆も然りというか、人もまた物語で魂であると感じるというか。

例えばあの司書(?)さんがあの服から、あの言葉から推察できる「誰」で合っているのかとか。語り師が出会ったあの青年が「嘉助」なのかとか。物語を読んで語っているはずの語り師もまた物語の登場人物でしかないということを表しているように感じる。

 

たとえば、全ての言葉がどこからきたのかは、その人の教養やキャストの話をちゃんと読んでいれば分かることで、平等に与えられた解釈の機会だ。

いくつもの物語を重複したことで、こうやって客に考えさせる余白が増えたのかもしれない。章扉が増えて行くように。

 

如何様にも解釈できるということは、どの解釈でも正解でないということで、それはまた「違うこと」の「さびしさ」であるように感じた。

 

ヒーリングCDみたいな作品で、なんも考えずに見つめてるだけで良いというか、変に気を張る必要もない静かな舞台だった。

朗々と声が合わさって響いて行くのが何かに似ていると思って調べたら、諷経というらしかった。今までの極上文學でそれに似ていると思ったのは初めてだから、宮澤賢治のおかげかなと思う。

 

 

ありがとうキュウレンジャー

今更すぎてもうどうしようもねえなって感じなのだが、やっとこさ宇宙戦隊キュウレンジャーを最後まで完走した。最後二話、涙無くして観れなかった。というわけで、ここではラスト二話に焦点を絞って「チキュウを救ってくれてありがとう、キュウレンジャー」の気持ちで感想を述べる。ウッ……キュウレンジャー終わらないで……。

 

・何も考えてないようで考えてるラッキー

ラッキーは大抵のことを「よっしゃラッキー!」で片付けてきた。そして大抵のことが彼の運にかかればお茶の子さいさいだった。でも人心ばかりはそうはいかず、彼は今までも多くの人の心を、その「自分の運を信じる」という彼の熱い心から出る言葉で動かしてきた。だから最後も彼は自分の言葉で、判断をそれぞれに委ねる。他のメンバーに最後の戦いを強制したりしないし、ちゃんと考える時間を用意する。そこがラッキーの育ちの良さというか、リーダーらしさだなと思う。

 

・決戦前夜

それぞれの決戦前夜のシーンの良さ、語っておきたい。

まず物語の中で最初にラッキーの言葉によって救われたガルや、反目しあったハミィが「そんなこと聞くなんて!」と言ってることがいい。リーダーというのはある種の孤独がつきまとうもので、実際前夜のラッキーだって一人でみんなの決断を待ってた。けど「そんなこと聞くなんて!」と怒ってくれる人がいるというのは、ラッキーが一人になることはないと示してくれてることに他ならないと私は思う。

BN団〜〜!!! この二人は最初から最後まで二人の世界だった。もちろん他のメンバーとちゃんと絆はあるけど、それでも最後にずっと一緒だと確かめ合うのは他のメンバー全員とではなく、バランスとナーガお互いなのだ。それはナーガが得た感情の、その「恐怖」のままに遁走しても、バランスが利己主義のために逃げたとしても、それでもお互いのためにお互いがあるという全てを受け入れた依存のもとに成り立つ関係なのだ。二人の関係には名前はないけど、それでもずっと近くで続いて行くのだと無邪気に信じられるのがこの二人の良いところだった。

定期的に交流して欲しさがある。

キュウレンジャーが生んだディズニープリンセスこと、スティンガー。兄を追って始まった孤独な彼の旅路の終わりを前にして、彼を相棒と呼ぶ人と慕う人が彼の近くにいることに泣けた。単純に、もう一人ではないということがどれだけ彼を救うのだろうと思う。

小太郎はこれから大人になる。スティンガーはそれを見つめて過ごし己に兄を、小太郎に己を重ねて行くのだろうと思う。それは兄の想い出を反芻することに他ならず、そうすることでスティンガーは兄をこれ以上失わずに済む。チャンプはその痛みを、アントン博士を失ったチャンプはその痛みを知っているからこそ共有し、寄り添うことができる。孤独を感じた時に歌って誤魔化してきたスティンガーの歌は、チャンプや小太郎と共にメロディーを重ねることで初めて、絆を感じるためのツールになったのだ。

スパーダとラプターは何なの? え、何なの?

割とずっとそういう感じで描かれてた二人だったが、もうバッチリそういうフラグ立ってる感じ。これだけは言える、めっちゃ好き。スパーダは紳士で、フェミニストだ。ラプターはアンドロイドってこと以外は普通の女の子で、もうなんていうか、成就を願わずに居られない。

 

・最終決戦

みんなが次々と倒れて行くさま、あまりに辛い。ズタボロになりながら敵陣に突っ込んで行く。ここでスパーダとラプターがハリウッドさながらの愛の叫びを繰り広げ、私は感動した。いやまあ告ったとかそういうんじゃないんですけど、なんていうの、「私があなたを守る!」「僕だって君を守る!」みたいなそういうやつ……。ラプターって最初守られてばかりで、だからこそ戦う事を夢見てて、スパーダは取り返しのつかないことになるくらいなら夢を諦める方がいいって考えてて、すれ違ったこともあった。けどその二人がお互いのために背を預けて戦うことの尊さ、守る守られるの一方的な関係じゃなく共に並び立つ関係になったということが、素晴らしいと思うんだよね。この二人は、有り体に言えば恋愛感情のことだけど、そういう発展の仕方をこれからするかもしれないと匂わせられているから、そういう感情の複雑な交換は、対等であるからこそできるという事を示してると思う。

今までずっとナーガのことを元気付けてきたバランスは、機械生命であるが故にナーガより先に機能低下するところが悲しい。一年かけてたくさんの感情を得たナーガが、バランスの背中を感じながら「君と出会えてよかった」とポロポロ泣くシーン、大号泣でした。

スティンガーとチャンプと小太郎は、その点戦士らしいなと思った。戦うことそのものに主眼を置いている三人だから、敵の攻撃にも突っ込んで行くのがあまりにもかっこいい。

 

・ひとりひとりがスーパースター、全員揃ってオールスター

ドン・アルマゲの中にプラネジウム*1として吸収されていたショウ司令と、体を乗っ取られていたツルギを含めて、ドン・アルマゲを食い破って外に飛び出してくるみんなを見て、私の中の幼女が「信じてたよ〜〜」と泣いた。

ラッキーは言う、「ひとりひとりがスーパースター、全員揃ってオールスター」だと。

めっちゃくちゃに泣いた。

なんて単純な、なんてシンプルなメッセージだろう。一年かけて、ずっとキュウレンジャーが投げかけたのはこのメッセージだったのだ。

生まれも、育ちも、境遇も何もかも違う12人が、全員それぞれがスーパースターであるとラッキーは言ってくれる。みんな違ってみんな良い。

キュウレンジャーは熱い男の継承の話でもあったなと思う。最初の救世主であるツルギ*2から、ラッキーはリーダーとは何かをたくさん学んだはずだ。けれど、ある種ヒロイックな自己犠牲的発想をしがちなツルギを超えて行けるのが、ラッキーという男だった。ラッキーはなんてったって父であるアスラン王から託されてるからね。愛されている、自分の命が望まれているという感覚を持つラッキーは、自己犠牲を良しとしない。

まあ一歩間違えば自己犠牲になりかねない作戦でドン・アルマゲに挑んでたわけだが、それはキュータマやみんなの力を信じてたからこその判断ということで。勝算は自分を信じるというところにあったわけだ。

 

・VS鬱

ドン・アルマゲの正体が「運のない連中の思い」であることが判明し、ドン・アルマゲの短絡的かつ刹那的思考が生命体的でないが故に生まれたものだなと思って切なくなる。負の感情がドン・アルマゲとして排出され、ドン・アルマゲとして蓄積されてきたわけで、ハナっからキュウレンジャーは実体のない鬱と戦ってたわけだ。

否定的な感情の塊であるドン・アルマゲに、肯定感の塊であるキュウレンジャー、ひいてはラッキーが負けるわけがなく、ドン・アルマゲの中にプラネジウムとして吸い取られた多くの生命がキュウレンジャーへの応援という形で一つになり、強大な鬱を滅する。

ラッキーの運を引き寄せるポジティブさは、自分を信じるという単純なところに端を発している。努力は必ず報われるとか、そういうこと以前に自分を信じて、とずっと伝えていたのだ。ひとりひとりがスーパースター、みんなそれぞれ違うけど、それぞれが自分を信じて、と。その圧倒的肯定感が、全ての負の感情たるドン・アルマゲを打ち破るのだ。

流星に乗って落ちてくるラッキーの一話のリフレインに一年前を思い出し胸を熱くした。

 

・エピローグ

スティンガーが戦い続けるとして選んだ道がリベリオンの司令なの、ほんとあの孤独に戦ってたスティンガーが成長したなという感じ。ショウ司令によって拾われた彼もまた、キュウレンジャーの中の熱い男の、継承の物語の主人公だった。小太郎もまた、その近くで成長して、スティンガーからたくさんのものを継承するんだろうと思う。

スパーダとラプターめっちゃくちゃに可愛くない? なんなんだよモジモジしてんなよ可愛いなあもう。この二人はまたこれから始まる物語があって、それはそれでとっても見たい。あとツルギはほんとカレー好きだね。

一人っきりでじいやの元から飛び出して宇宙を旅してたはずのラッキーが、今度はガルと一緒に宇宙を旅してて、一話とおんなじようにスクーターで落ちてくる。やっと宇宙が平和になったのだ。平和になったからこそ、キュウレンジャーそれぞれの、戦いではない物語が始まる。だからこその一話と同じ落下で、けれど一話と違って12人の仲間なのだろうと思う。

 

中だるんだ時もあった。見ずに溜めまくった時もあった。平たく言って、色々あった。でも、初めてちゃんと見た特撮作品が「宇宙戦隊キュウレンジャー」で本当に良かったと思う。

一年間、本当にありがとう。

お疲れ様でした。

 

LUCKYSTAR

LUCKYSTAR

 

*1:星に眠るエネルギー

*2:初代宇宙連邦大統領であり、かつてドン・アルマゲを倒した。実際にはドン・アルマゲはクエルボに取り付いていたので生き残っていたのだけど。

舞台『駆けはやぶさ ひと大和』感想

まあ結論から言うと大号泣でしたわ。

でもたぶんあんまりこねくり回した感想はかけない。泣いてたからあんまり理解が追いついていないので。

 

もふ虎は死にゆく者の物語で、つむ鴨は残された者の物語で、かけ隼は生きていく者の物語だったのだろうと思う。生きているからこそ憧れ、死ぬ覚悟すら持って生きて、他者にそれを語る。そして描き、残す物語だった。死のう、死にたかった、と来て、最後は生きようという物語。

 

かけ隼の土方歳三斎藤一新選組の話だけあってとても人間臭い。なんというか、もふ虎は憧れられる者として描かれていたし、つむ鴨の土方は超えられぬ壁で斎藤は抜け殻(会津から見れば戦神)のよう。かけ隼でやっと、なんというか、落ち込むこともあるし、乗り越えなきゃいけないものもある、そういう存在として描かれたんだなって思った。

登り切るべき坂道は残された斎藤にとっては決戦の地たる田原坂であり、鬼として生き切った土方にとっては黄泉比良坂だったわけで。まほろばとは、また生き直さなければならない斎藤は未だ探し続け、部下がその逝く道を共した土方にとってその景色こそまほろばだったんじゃないかと、おいおい泣きながら思った。

 

主人公たち三人が良かったな。お調子者の中島、穏やかで優しい市村、真面目で向上心のある横倉。少年漫画的でとてもわかりやすく、そしてそれぞれを応援したくなる。愛おしいキャラクターだったと思う。あの三人の中で横倉だけが、あの墓に参ることができないことを悲しいと、2度目に観た時に思った。

花村さんの少年のような声音がまた良く、未成熟感が中島登という人がこれからも生き、そして己が為すべきことをなして行くのだということを感じさせる。

 

かつて、応援していた(今もしているけれど。ここでは役を降りたという意味に取って欲しい)俳優が沖田を演じていた身として、沖田の死にゆく様はあまりに悲しく見えた。

 いや、むしろ沖田くんが悲しいや悔しい、諦めすらも超えて死んでいくのが辛くて仕方なかった。沖田くんは刻一刻と近くなる死の気配を察して生きてる。剣に生きた人が最後に望むのが家族のように共にあった人との再会なのが、人間であるということを見せつけられているようでどうしても悲しい。長身の沖田くんを小柄な市村が抱き、頬を寄せる(ように私には見えているし見たい)姿が切ない。泣けるポイントはたくさんある。けれどどうしても一つを選ぶなら私はここを選ぶ。

 

死にゆく白虎隊の想いを一人継いだ飯沼貞吉。失われた故郷の全て(例えば松平容保公や新選組という集団への忠義、あるいは会津藩の誇り)を継ぎ、失われゆくもののふの時代へ殉ずることを選んだ中村半次郎をも背負う斎藤一。歴史が止まることのない流れであるなか、途絶えるものを継ぐ姿を描き続けたシリーズは、やっと語り継ぐ人を主人公に据えることになった。横倉は近藤の想いを継いだのだろうし、市村は沖田の想いを継いだ。それは土方に託され、中島が描いた。

残されたものは、殉ずることを選ばないのであれば、生きなければならない。生きなければならないということを、その継いだ物語を「幸せだった」と言える中島の、なんと主人公たることか。

笑いながら新選組を語る近藤、土方、沖田の幸せな姿を、その背中を、主とした中島が涙ながらに見つめるその幕引きは、あまりにも終幕に相応しいものだった。

 

正直いつもの通りの超時空大河ドラマであることは否めないのだが、そして気にならないと言ったら嘘なのだが、でもどうでもいいかなとは思ってしまう。それほど揺さぶられるものがあるし、そういう力のある作品だ。

 

観ることができて、本当に良かった。

私は、その僥倖に感謝している。

『ひかりふる路』感想的なもの

朝美絢さん。

朝美 絢(Jun Asami) | 宝塚歌劇公式ホームページ

(もっと可愛い画像もたくさんあるからGoogle先生に訊いてね)

 

はじめは順当に望海風斗さんを観ていたんだけれど、こう、チラチラと視界にどう考えてもとても、有り体に言えばハンサムな顔が見えるの。

気づいたらその方を目で追っていたわ。

タカラヅカとは恐ろしくも、あれだけの人数がステージの上にいらっしゃるというのに、全員が女性なの。普段のわたしは銀河劇場やシアター1010のステージの上に男性が溢れかえりそうな(いや、もう溢れかえっているわ)舞台ばかり観ているから、なんて言うのかしらね、そう、信じられなかったわ。

誰一人として男性がいない、それでいて目前にハンサムがお芝居をしているこの状況。

望海さんが高らかに彼女(表現方法がわからないの、男役のタカラジェンヌのことは何と呼ぶのが正解なの?)を呼ぶ。「サン=ジュスト!」わたしは覚えたわ。覚えてレビューまでの幕間で確認したわ。

それが朝美絢さんだったの。

有り体に言って、Google画像検索でもハンサムだったわ。そして普段の彼女は、あまりにもなりたい顔だった。彼女は『わたしの男性の好みの顔をした女性』という、稀有な存在すぎてわたしはレビューを観ながら震えたの。

『Hard Knock Days』は最高の極みだった。男性アイドルのようでありながら女性、陳腐な表現になるのだけれど、最高だった。

 

取り巻きの一人になりたい感じと言えばわかるかしら。

不良グループの参謀が朝美さんなら、その指示に忠実に従う駒になりたい。だいたいこういうことを言うと、一人を除いて「わからない」言われるの。

 

色々ね、本当は書きたいことがあったのよ。でもどうしても、「朝美絢さんの顔になりたい」というところに落ち着くものだから、もうそれを言うだけのエントリにしたわ。

 しかしわたし、写真撮るの本当に下手ね。

 

は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜次の公演も観に行きてぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

『ピカレスクセブン』と『only silver fish』感想

とってもポエミーな感想

 

ピカレスクセブン

めっちゃくちゃに毛利さんっぽいなと思った。

例えばマクベスの死に方、完全にミュージカル薄桜鬼だった。彼が演ずる役が階段の上に立ち、彼を討つ役目のキャラクターが階段の下で客席に向かって刀を振り下ろす。マクベスは風間で、上演されることのなかった永倉新八篇だった。(他に言ってる人もいたので良しとする)

ありそさんがリチャード王であることや、ピーターパンを他人と思えない井俣さん、キュータマダンスの春日局などなど、これまでの社中作品や毛利さんの携わった作品を観てきた人や東映にどっぷりしてきた人にとって微笑ましいシーンがたくさんある。

登場人物の立場がくるくると入れ替わるところもとても毛利さんっぽい(悠久を思い浮かべていただくと良い)のであるが、なにより毛利さんの描く男同士の関係性は、相変わらずである。殺されるのであればそれだけの価値のある男に、救うのであればその男の生を全て背負って……死が二人を分かつまで続けられる得物に乗ったやりとり、非常にめんどくさい男の関係性ここに極まれりといった風情である。

だってマクベスの孤独を救うのが、褥から地獄まで寄り添うジャック・ザ・リッパー(女性です)ではなくて、孤独という生の檻から解き放ったイエミツなのだから。

あと単純な話として、東映の元ヒーロー(役者)たちが極悪人として見参するところにテンション上がる。二律背反。

 

ただし、求心力はこれまでと比べ物にならないくらい弱い。

シーン一つ一つキャラクター一人一人のパワーであって物語の整合性はないと思う。説明の足りない成田良悟の小説があったとしたら、それはきっとこんな感じなんだろうなと思う。

あまりにも知っているべき前提条件が多すぎるし、イエミツとマクベスのラストバトルで全てを解決しようとしすぎている。ミスリードとして活きてよかったはずのもろもろ(黒タイツとか)もそのままであって、超自然的な力の近くにいる良子さんというのもテンプレ。

社中20周年、東映コラボ……なにも一緒にする必要はなかったのにね、とは思ってしまった。

 

なんていうか、秀吉には秀吉の織田信長があり、家康には家康の織田信長がある。家康にとっての織田信長それは、永遠に憧れるべき信長。そういう感じからのヤイサヤイサ、ディベード挟んでヤイサ、そんな感じの舞台。

で、やっぱりいろんなところに好みの色々があるんだよなあって思う。

 

・only silver fish

 丁寧な作品だったと思う。

ミステリーなのでネタバレは避けたいのだが、無理だった。

 

ファンタジーの可能性をチラつかせながら全くファンタジーじゃないところに、非常に好感を持った。

丁寧に、西田色は最低限に、ミステリーとして物語を描くために注意を払って作られたのだろうなとわかる舞台であった。とても引き込まれた。集中して見ることの出来る、ミステリーであるから全ての情報を拾おうとするのは当たり前かもしれないが、それを問題なくこなせそうでやはり術中にハマるような、そういう舞台だった。とても面白かった。

 

それでいて、とても古典だった。これもまた、良い意味だ。

自然に集まった男女の中から自然発生的に事件が起きるのではなく、意図されたある種作者の恣意的な面々が集まっていても、それが「そういうものであるから」受け入れられるのが古典だとして、OSFはそういう意味で古典であったと思う。そしてマシューを主人公であるとしておきながら群像劇としてマシューの視点に観客を固定させなかったことで、種明かしするまでの緊張感を保てたような感じもする。いっそ探偵でもよかったと思うけど、それこそあまりに作為的だろうか。

 

愛の重い松田凌、好きだなと思う。重すぎて受け入れてもらえないまま孤独を深めて行く松田凌という役者が良い。

私はラトーヤがマシューをひっぱたいたこともよくわからなかったのだが(孤独なのだから他人を巻き込むのは当たり前だろう。巻き込まれた側としてひっぱたきたくなる心情は理解できる)ケビンがマシューを「狂っている」と揶揄(揶揄で表現があっているかどうかは自信がない)することに関しては全く理解できなかった。

いやいや、全ての引き金はあなたの妹でしょ。誰が狂わせたか明確でありながら何もしてこなかった、実家の金を食い潰した可能性すらあるあなたに言えた事じゃないでしょ。と思う。

その反面エミリーには理解を示せるなと思った。エミリーはわかりやすいから(そのように演出されているから)。不安に思っているからマシューに問うし、ロイと居れば滲み出ちゃうし。

 

映画がどのようにこの舞台の印象を変えてくれるのか、楽しみにしていようと思う。

これから解決されるのかもしれない疑問として、冒頭のマシューが本の内容を自分に置き換えてなぞるシーンで、「マーティン」というのは本の主人公なのか、「メアリ・クリスティ」というのはアガサその人なのか、メモとして残しておく。

 

しかしこんな可愛くない感想ある?

もっとどこの誰々がどうとか書けばよかった。

 

 

追記

愛の重い洋二郎さんも最高だなと思った。