サニーサイドアップフォーチュン

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四谷怪談 深読みまみれの感想

また自分ルールを破るがこれから年末までゴリゴリ労働しているのになんのフェイクにもならんくない?と思ったし、何よりこれを見て行こうと思う奇特な人がいるかもしれないし、もう投稿します。

 

まず四方向から舞台を観るというところがいいよね。逃げ道の無いそれは閉じられた環境であった事件の象徴にも思える。

不勉強で申し訳ないが、下地は歌舞伎の『東海道四谷怪談』で良いのだろうか。ウィキペディア情報では初演時『仮名手本忠臣蔵』と合わせての上演だったとある。これが1825年上演、もう一つのテーマとなる事件発覚は2002年、史実上の吉良邸への討ち入りが1703年、四谷怪談の初演が2015年で、今年は2017年である。江戸文化華やぐ元禄から、虚構の時代ですら終焉した2000年代まで、ぶっ飛んで描くというわけであるから相変わらずである。

 

客席という完全な他者。視線の檻。まなざしの地獄。全方位客席ということは、そういうことなのだろうと私は思っていた。

 

四谷怪談と題材の事件に、関連があるのとはまた違うのだと観劇後考えた。憎悪、嫉妬、愛情、慕情、疑心、忠信という意味では近いものがあるかもしれないから、組み合わせるに至ったのだと思うのだけれど。そこに忠臣蔵が入ってくるのは、やはり忠臣蔵が共に上演された歴史を持つからだろう。

四谷怪談は弁護士のおじさまが差し入れた本であり、瑠璃子と少女が現実から逃避するツールであると解釈した。役を与えるというのは主人公であるお岩の特権であり、同時にそれは登場人物たるお岩よりも上位にいる読み手の少女の特権である。逃避する場所があるそれ故に少女は己を演ずるということを選ぶことができ、弁護士に語ることができたのだろうと思う。

一学と少年が同じ演者であるということもまた、少年が選択した結果であるなら(これは少年が生き延びていて欲しいという私の願望であり、顛末について調べた結果ではない)、少年が生きているということにはならないだろうか。一学のあり方が少年の理想だったのかもしれない。誰かを、お岩を、少年の母を一途に想いそのために抗いたかった少年の理想が一学だったのかもしれない。一学という人物に投影され、一学という役を頭の中で演じ、語る少年が花道の奥にいたのかもしれない。お岩と一学の対話が、瑠璃子の母・静と少年の対話に切り替わるシーンは、私にはその比喩に見える。お岩が静との二役であるのは「母」の比喩で、それが「少年の母」を殺した「瑠璃子の母」であるのは「少年の母」がもう存在しないことを示している……というように。

同じ事がくうにも言えると思う。少年の理想が一学なら、少女の理想はくうのように無邪気なままでいたかったということなのだろう。

思えばお岩がどうして数多くの男に想いを寄せられているのか、考える必要がある。

それはお岩が少年の母であり、伊右衛門の妻という主人公であり、物語の読み手たる少女の投影という側面を持っていたからだと考える。少女と対峙するお岩が、容疑者として役割を果たすシーンがある。これはこの舞台が少女の語りによって形成されているからだと私は思う。お岩は主人公として読み手のもっとも近いところにおり、幾度も姿を借りて少女に問う。主人公とは読み手が物語に埋没するための視点であり、その主人公の姿で少女に問うという行為は自問自答に他ならないと考える。お岩が少女に問いかけるとき、お岩は主人公であり、少女自身である。「この人たちの子どもがいるわ」と言った彼女が(あるいは少年が)お岩を見て悲鳴をあげるのは、事件に対する回想のクライマックスでお岩の形をした己に(あるいは母に)己の罪を指し示されているから、と考えられないだろうか。

少女と二役であるくうの父・大石内蔵助は少女にとっての「愛すべき父」であり、浅野内匠頭は「浅ましい父(お酒を飲む父のことは嫌いだった、というのは少女の言だ)」の象徴であったのだと考える。少女の生まれが浅野内匠頭の子種であるというのは、容疑者による度重なる「父親の血」の刷り込みの結果のように見える。父親というのは産みとは別の存在である。産んだという事実を伴わない存在という意味で、父親とは己が(あるいは法が)決めると言える。しかし一方で浅野内匠頭は只野(少女の父)との二役であり、少女=くうは本来の血筋から逃れることは出来ないということになる。日本社会においては父の系譜の中に母を取り込むことが一般的に行われており、父の系譜が己の(少女の)出自となる。産みという事実ですら系譜の前にはもみ消される。こうして育ったくうはお岩を母と呼ぶことはしても、本当の父について知ることはない。それはこれまでの生活の中で明示的に父として示されている大石内蔵助を受け入れているからに他ならないと考える。少女が常に持っていた写真が父の肖像であることは、少女=くうの「愛すべき父」大石内蔵助が確定していることから常に観客に示されていたこととして解釈することができるのではないだろうか。

また、お岩が読み手としての少女の投影である時、父に愛される者としてのお岩であったと考えることもできると思う。だがここはだいぶ流動的というか、お岩が四谷怪談の登場人物であるがゆえに解釈としてブレるポイントだなとも思う。

 

少年については難しいなとも思う。少年という形で描かれているだけで持たされている役割はたくさんあるように思う。この場合、役割というのはその事件の中で描かれていなかった幾人かの立場の人という意味である。

同時にお岩についても難しいなと思う。パンフレットの「柵端」だけ見ると、ストーリーテラーとしての彼女に役名が付いているように思う。でも本編を見ると彼女は少女(あるいは少年、そして瑠璃子)との対話が主だっているようにも思えるし、読み手の我々が埋没すべき主人公であると私は感じている。

 

 神様はいるか、という容疑者の問いに、いると少女は答える。容疑者は信じていないと言うが、いると答えられた少女もまた陳腐だがすごいと思う。あの状況下で、という単純な感想として。

 

われわれは、今や、第三者の審級の意志が分からないだけではない。そもそも、第三者の審級が存在していないかも知れない、との懐疑を払拭することができないのだ。

p139 『不可能性の時代 』岩波新書 著:大澤真幸

 

客席という完全な他者。視線の檻。物語の傍観者ではなく、事件に気づかなかった者として、もしくは四谷怪談の読み手として客席はあるように思われる。

判断は、客席に委ねられる。客席に座る演者はこの時第三者である。第三者である客席の目は少女がこれから晒されて行くものである。

 

一旦は撤退した第三者の審級が、言わば裏口から——独特の変形を伴って——回帰する可能性があるのだ。自由であること自体への命令が帰属する他者として、第三者の審級が再生するのである。

p147『不可能性の時代 』岩波新書 著:大澤真幸

 

己自身を、と何度も舞台上では言うのに、観客のまなざしからは逃れられない。まなざしに晒されて生きて行かざるを得ないのだろう。

 

以上、感想というより考察の類になってしまった文章でした。二番煎じだったり論理が破綻していたりしたらごめんなさい。あと単純にキモくてごめんなさい。

ついでにちょっと、ぼんやりとした感想を。

 

一学がとても美しい。あまりにも美しい。嫉妬や欲を持っているのにそれを超えてお岩を想う姿ががいっそ高潔であるとも思える。殺陣の鬼気迫る舞のようなそれも、一学の持つ一途さというある種の狂気のようで、美しい上に少し恐ろしい。

少年が容疑者に抱かれて、視線の移動だけで萩原家や容疑者を確認するその目がとてもよかった。瑠璃子を見るときの軽蔑するような目、只野を見るときのどうでも良さそうな目、容疑者を見るときの憎むような目。少年もまた、恐ろしいくらい美しい。

お岩と再会した伊右衛門の優しいこと優しいこと。二面性のある男、として表現されていたはずなのに、お岩を失ったと思ってからそれがどんどん剥ぎ取られて行くのが恐ろしいくらいだった。

お岩もまたそうで、語りかけるときとお岩と瑠璃子の母ではもう全く別。それを難なく切り替えて行く恐ろしさ。

大石内蔵助の存在感がさすがだった。この人もまた腹に一物あるわけだが、それが徐々に感じ取れると言うか、初めからどんと二面性を示される伊右衛門とは違ってゆっくりと流れ出す。これもまた恐ろしい。

個人的に直助がすごく好きだった、わかりやすくチンピラの小者であるところとか。赤穂藩の印を見せつけた後の悪い顔とか。

 

気になる点としてはイエモンの世代じゃないので、イエモンの歌?を歌われてもどうしようもなかったというところ。あれ笑うところ?

 

金木犀が 流れて来たときのキタキタ感がすごかった。あぁ、四谷怪談を観に来たのだ、という。

 

非常に疲れる舞台であったが、同時に見て良かったと思う作品であった。考える余地をあくまで残し、観客もまた巻き込まれるというその描き方が、当事者としての意識を観客に持たせるという意味で、恐ろしい作品であったと思う。