サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

『エダニク』感想

稲葉友さん的意味で観劇しました。実は生で稲葉さん観るのは『露出狂』ぶり。

視点の違いが面白いと思った。

例えば私は昔『銀の匙*1』の舞台挨拶に行く前に、「北海道の話だから」という単純な理由から豚丼をおなかいっぱい食べて行って、屠殺のくだりで気持ち悪くなったことがある。生き物であった事実と食品が直結する感覚だった。たぶんそれは伊舞の感覚に通ずるものがあったのだろう。そういうわかっちゃいるけど普段考えないことを極端な玄田と伊舞の言動で対立させるのが面白い。二人とも一切折れないから。

正義感だけで飯が食えるか、という話でもある。

いるよね正義感がすごい強い人、何に触発されてるのか知らないけど「自分が言っていることは正しい」という大前提で話す人。玄田にとっては豚は豚、解体されて流通に乗せるもの。けれどそれは倫理的に許されることなのか。伊舞にとっては手塩にかけて育てた豚、せめて憐れみくらいは抱いてほしいもの。けれど商業的には矛盾するのではないか。観客は彼らがかなりぶっ飛んだテンションであっても、二人の主張が論理的に破綻していないから、どちらのことも嫌いにはなれない。好きにもならないけど。舞台に映える極端な人柄として描かれてはいてもそのバランスがとても好きだった。

沢村は守るべき家族がいるから玄田のように豚を商品としても認識できるし、伊舞の想いも尊重できる。そういう意味でやはり主人公だ。

沢村は妻子がいる以上己が養っていかないといけないと思っている。ニートから就職したという伊舞を侮っていた態度を超得意先「伊舞ファーム」御曹司とわかった時点でくるっと変えるのも、以降伊舞の機嫌を損ねないように最新の注意を払うのも、全ては妻子のため。「伊舞ファーム」が沢村の勤める「丸元」から撤退したら、「丸元」が立ち行かなくなるかもしれないから。

さて、こう書いてしまうと妻子という存在=命を背負う沢村と、手塩にかけたかわいい豚=命を想う伊舞とはなるものの、玄田はなんなのかということになってしまうが、そこで出てくるのが姿なき登場人物「柳さん」である。

玄田が大阪時代に、玄田の責任によって怪我を負ってしまった柳さんの人生そのものを玄田が背負っていることによって、人生を支えるものの=金というところから彼の商業的発想に結びつくのだろう。

騒動の発端である「延髄の紛失」も、三人それぞれの立場からして見たら重みが異なる。沢村にとっては勤める会社に損害を出し妻子の生活を脅かすかもしれない事態で、玄田にとっては柳さんの人生をさらに危うくする事態で、伊舞にとっては取引先で起きた面白い事件なのだ。

全く交わらない、ぶつかり合うだけの三人が、軽快に台詞を叫びながらコミカルに表現していく。刃物を持って舞台の上を走り回るところなんてあまりに馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。延髄紛失と豚の解体それぞれに対する視点の違いがぶつかり合った結果、取引先である以上常に優位だった「伊舞ファーム」の伊舞に対し、下請けたる「ミートセンター丸元」の立場が逆転する。それもたった一枚の写真で。あんなに主張を巡って叫んで走って対立していた三人が、またあっけなく「クライアントと業者」の関係に戻っていくのが馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。

 

ラスト、柳さんが「丸元」を去ったことが示される。玄田は豚の担当を外され、沢村は残り、伊舞はまた勉強のために「丸元」を訪れる。生きていくために──つまり、豚を解体して売って利益を得るために、各々がわずかに譲歩した形で決着となる。命はものではない。だがそれをものとして消費することで生かされる命がある。結論の出ない三人の議論がどんなに大切なテーマだったとしても、三人が全員納得できるポイントなどないし、結論が出なくても「ミートセンター丸元」は今日も「伊舞ファーム」の豚を解体して出荷するのだ。

 

ごちゃごちゃと色々なものが雑然と置かれていた舞台セットが、すべて活かされていたのが楽しい。舞台は研磨室(兼 休憩室)であるから置いてあるラジオから流れる諸注意も、刃物も、研磨機も、ロッカーも、すべて余すところなく演出に使われている。楽しい。流れるラジオ、聞き覚えがあるタイトル。主に金曜日に。

 

そんなわけで、私は楽しんだ。お尻痛かったけどね。