サニーサイドアップフォーチュン

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『メサイア 黎明乃刻』感想

影青からシリーズ参入した人は「影青出は永遠の新規」*1などと呼ばれるものという覚悟で生きてきましたが、その新規ももう四年選手らしいです。怖いですね。

実はTwitterにも我慢できずに感想書いてしまっている部分もあるので重なると思います。

勢いで書いてしまったから後々手を加える可能性もあるけれどその時はどこをいじったか一応記録は残そうと思う。

これまでのメサイアとわたし

揺れ動く二人(雛森と小暮)

雛森も小暮も揺れる揺れる。

雛森の小暮を喪失してからの不安定さと、深層心理をむき出しにさせられてからの小暮の激情が、揺れて揺れて。収まったと思ったら何も救われぬ形なのが悲しく、そしてそこからの救いのカタルシスが熱い。

雛森の小暮に対する先輩面は、ずっと私の中では兄弟のように受け止められていた。

庇護すべき対象として小暮を見ているというか、どこか対等ではないものとして描かれていたのだと思う。それは雛森と園にも言えることで、つまるところ、雛森と同じ場所に立とうとした小暮でなければメサイアにはなれなかったのだろう。

雛森の、序盤のずっと悲痛な声で小暮を呼んでいるの、本当にかわいそうで、また失ってしまうかもしれない恐怖とかそれまでの後悔とかが、本当に悲痛だと思う。

万夜様やレネ、要やラスールと会話している時の雛森はいたって普通なのに、小暮を目の前にしただけで取り乱して、追いすがって、引き金を引いてからは空っぽの人形のようになるの、あの一発の弾丸が雛森にとってはあまりにも比重の大きな問題だったんだろうな。園が北方の手に落ちた時、雛森は手を下していない。行けなかっただけだ。でも小暮に対して引き金を引いたのは雛森で、それですべての関係が終わったと思ったのだろう。死んだと思ったし、そうすればもう戦う理由は雛森にとってはないも同然、与えられた園からの言葉に従うのが最も簡単。たとえ小暮が生きていたとして、小暮への罪悪感もあるだろうし、そばにいることを簡単には選べないだろう。もちろん、それは園の近くにいるという贖罪の意味もあったろうけど。

そんなふうにいずれなるような雛森に対して、自分を取るか、園を取るのか強要する小暮の無慈悲なこと。初めから小暮のことを園の代わりなんて扱っちゃいなかったのに、それでもなお自分を選べと叫ぶ小暮の残酷なこと。

小暮のバーサーカー状態が幼少期のない彼にとっての初めての反抗期だったとして、それを父たる一嶋さんにぶつけるシーンは涙が止まらなかった。メサイアシリーズに、母が板の上に立つことなどない。それはイケメン若手舞台俳優のためのシリーズだからだ。ゆえにこれまでも多発してきた父殺しは、こうしてまた行われる。「自分だけが誰でもないと思うな」に、一嶋さんもまた迷いながらも経験を積んで勝ち取った今の自分であるというところを感じる。

「おれはお前とは違う」という簡単なこと、夢の中で焦がれるのが雛森という存在であること、雛森への劣等感や己を理解してほしいという感情。全部子供のようでありながら、子供のように無垢ではないにしろ自ら気づき、成長した。夢の中で雛森を失うことでそれに気づくきっかけを得るのもまた、子供のようだ。

小暮はそんな子供の模倣を乗り越えて、自分を救い出そうとしてくれた雛森と同じ次元に立ったわけだけれど、雛森は別に園に対して兄や師のような感情を抱いていたにしろ並び立ちたいとは思ってなかったろうから、あくまで庇護される対象でしかなく、メサイアにはなれなかった――そう解釈した。園のことを雛森は愛したかもしれないが、雛森と小暮の中に園はいない。乗り越えるべき過去なのだ。

小暮が再びメサイアコートに身を包んで舞台の上に戻るシーン、泣けた。やっと帰ってきてくれた。すべての戦いが終わって、わずかに視線が雛森と交錯して微笑むところ、本当に愛おしいのなんのって。

なんかわかんないですけど小暮めちゃくちゃ可愛くないですか? こっぱずかしいことたくさん言って雛森を動揺させてほしい。

衣装の一部を交換して、同じアクセサリーをつけて、おそろいの稽古着を着て、同じ指輪をしてもそれを「そっか~~」と受け止められるような舞台シリーズなんて、私はメサイアしか知らないし、これから先にもメサイア以外のシリーズがそんなバグった距離感を受け止めていけるとは思っていない。

だからこそメサイアが稀有であって貴重であったことや、影青からの新規ちゃんとしてでも参入できたことを心から喜ばしく思うのだ。

愛するということ(園)

いや言っちゃうんだね? と思った。

「なによりもお前を愛していた」というセリフがマイクに乗るのは、シリーズ上初めてではなかったろうか*2。園之人という人間が何を愛していたかなんて、観客は知っていたけれど。それを舞台の上から、まぎれもなく愛だったのだと、役者の口から聞くことになるなんて。

これまで、制作されてきた脚本と演出、そして観客は「鉄の掟」*3を大前提として非常にハイコンテクストな文化の中である登場人物同士の愛を感じ取り、それを深読みしてヒィヒィ言って来ていた。それは観客が読み解いた中から生まれた愛情であり、実際にそれが愛情として想定されていたのか、役者が愛情として演じていたのかということは全く別の次元である。

しかし、園から向けられていた雛森への感情は、愛なのである。

それを明言することで、刻シリーズの終わりを強く意識させられるし、作り手側がそういう感情の答えを観客に伝えることで、これまで見たもの、黎明で見たものも愛だったのかなと思うのだ。

園個人への感想としては、村上さんの年齢も相まって醸成されたキャラクターなのだろうと思う。村上さんが大人だったから、雛森を教え子とし自分の庇護下に置こうとする園になったのだと思うし、村上さんだったから雛森と小暮を送り出してやれた。園というのはトリックスターとして非常に使い勝手の良いキャラクターだったろうなとも思う。

園の不思議さは結局、理想を掲げその実現のためなら何でもできる風でありながら、なぜか雛森への情を捨てられなかったことにあると思う。ボスホートに渡り数多くの教え子を育てながらも、結局は最初の教え子たる雛森を超える愛情を注ぐことができずに雛森への愛情を捨てられなかった。「最高傑作」と雛森を呼ぶけれど、ブレなさや合理的さで言えばどう見たってガラのほうが優秀だ。園の偏った視点がそこに現れているのだと思う。ただ一人に愛情を絞ったからこそ、そのほかに対して感情を揺らすことがなかった――そういう悲しい人なのだろう。

園と雛森は、5年の時を経てもなお、メサイアにはなり切れなかったことが悲しいが、彼の雛森への愛情深さが最後、鉄の掟を言わせ、小暮にも言わせ、続きに詰まれば肩代わりしてあげるようなそういう最期になったんだろう。

共にあるということ(小太郎と万夜様とレネ)

こ、小太郎ーーーーーーーー。

万夜様は相変わらず小太郎のことを全然、そりゃあもう全然乗り越えてない。体の中の小太郎を想って、そしてすがって生きている。レネの明るさやあけっぴろげさがいつか万夜様を救うことになればいいと思っていたけど、万夜様はそう簡単には救われてくれていなかった。

結局、レネのほうが先に小太郎という存在を含めての万夜様を受け入れると決めたし、万夜様は小太郎の後押しがなければ踏み切ることはできなかった。レネのその潔い決断は彼が愛されて育って明るく生きてきたことに由来するのだろうか。

小太郎の声がして、小太郎のほうが先にレネを受け入れていたこと。小太郎が万夜様の中に溶けていくこと。小太郎の声がした瞬間から涙が止まらなくて、そしてスタッフロールで流れていく小太郎の名前の前でお芝居をする万夜様とレネというこだわりのようなものにまた涙した。

信仰は、恋にも似ていると私はかつて思った。

万夜様は今でもやっぱり神聖な子供で、片足棺桶に突っ込んだまま生きてて、死ねない死ねないという叫び声で生きてて、レネは心配だったろうと思うんだよね。

神聖であるとレネが万夜様のことを思ったかっていうとちょっと違うと思うけど。そういう失うことへの恐怖を口にするところが小太郎にも似ていて、でも家族というアプローチがレネの明るさを表現していてとてもよかった。家族に殺されかけた小太郎にはきっと言えなかったことだ。

小太郎の構え方をする万夜様が、一人の中に二人いるのだということが月詠が刺さっているおたくとして涙が止まらなかったし、レネが「お前たち」と呼ぶその鷹揚さも救いだった。

祖国のために尽くすということ(ガラ)

いい男、それがガラ。

黄昏だけを見ていると、計算高く、優秀で、冷酷な男にしか見ないガラだけれど、黎明の彼は信念のために臨機応変に対応するかっこいい男だった。

ガラは祖国のために生きている。祖国をよりよくするために生きている。国家に尽くし死んでいったサリュートに近いけれど、彼の祖国の定義よりもずっと広範囲を見ているのだろうなと思った。

ガラにとって国とはおそらくは血であり、はらからとしての自認であり、名前である。

だから真生光の革命は、市民と権力層という簡単な対立構図を所かまわず生むような革命は、彼にとっては許されないのだろうと思う。市民、というひとまとめにされた層としての名前は、彼の思う国家ではないのかなと。

ラスールのことを同胞と呼び、彼を弔うガラが、よりよい世界のためにこれからも尽くすんだろう。

信じる者と信仰される者(穂波と昴流)

祖国に尽くすといい――ガラに言われて昴流がやって来るのが穂波の元なの、昴流が一番諦めきれていないんだよな、照る日の杜を。

ある時からきっと穂波こそが昴流の世界になった、世界を変えたんだろうと私は感じている。そうでもなければ「世界を変えられる男なんだ」と、今もなお信じていると穂波に言うことなどできないだろうに。俺なんかという昴流の言には、やっぱりまだ神樹様として穂波を見ているんだろうというのがありありと見える。

昴流にとっては穂波の命こそが一番なのに、当の本人は昴流の命を大事だと言うんだもんなあ。初めは数ある信者の命でしかなかったはずなのに。

誰かを救うことでしか許されないと思っていた穂波の、これからの理想の中に、穂波自身が笑って穏やかに過ごせる場所があればいいと思う。かつてサリュートが死んだとき、サリュートの祖国の形がスークなら良いのにと思ったものだけど、こうして昴流の祖国の形が穂波であるなら、昴流が死に急ぐこともないんだろう。

見届ける、死なせないと言った昴流が、例えば小太郎のような手段で穂波を救うのかもしれないけども。見届けるというその言葉には嘘はないだろうから、どうかこれからも肩を貸して生きて行ってほしい。

二人だけど一人の彼岸花(要とラスール)

 二人出てきたらメサイア組んでると思うじゃん、全然違った。

ヒガンバナのつらいところは、せっかく二人いるのに真生光先生のためにあてがわれているからか唯一無二を持たぬところで、もしサクラ候補生として卒業試験に臨むようなことがあれば要とラスールはメサイアだったのに、二人はヒガンバナである以上メサイアにはなれないんですよ。

ラスールがなぜエレガントさにこだわりを求めるのか、要の個への執着は何なのか、掘り下げられることはなかったがきっとまた深いバックボーンを描けそうな二人に興味が止まらない。

二人がずっと付き従ってきた真生光の死を見届けるとき、どんな気持ちだったのだろう。世代を交代すること以外に感情があるとしたら。きっと老いる先生を見たくなかったのではないか。老いて、狂っていく先生を。

想像でしかないが、野望に錯乱していく真生光先生を、己らが従った賢明な先生のまま押しとどめていきたかったのではないか。敗戦の憎しみに駆られるような、敗戦の苦しみを生きた子供に戻るような先生の姿ではなくて。

構造(物語とセット)

はじめ、そうまでして五係をつぶすことに何の得があるのかと思っていた。国益を思うなら名前を変えてさらに地下に潜ればいいだけのことだ。

今回はそういう観客の違和感を使って大きな話を転換していくところが、「刻」らしくそして最後の大風呂敷らしくてよかったと思う。初めから真生光は細かな勢力がぶつかり合うのではなくて市民と権力のぶつかり合いを望んでいて、広げた大風呂敷があっさり収束していくこともまた、「刻」らしくてよい。

「刻」の最後だ。これが毛利さんと西森さんの、私が慣れ親しんだメサイアの最後だ。

その最後の敵がスーツを着込んだサクラであること、その最後の舞台が教会――チャーチであること、チャーチの奥深くで園が果てたこと、すべてが帰るべき場所に戻ってきたのだろうと思う。

きっと矛盾はある。今回あまりしっかりと準備ができず(なにせチケ発時も公演期間も死ぬほど忙しかった)もっと観ればよかったと後悔している。だけれどもこうしてまた、メサイアの感想エントリを書いている幸福に感謝したい。わかっているのだ。今回園が「愛していた」と告げた威力、言葉にすることが決定打となることも、鋼くらいからずっと、それはもう大きすぎる感情をぶつけ合うことを描くのに力を入れすぎているのではないかとか。私だってわかってはいるのだ。

もう今更、今更それを私にはもう。つまるところ観客はそれを望んだし、それを見て涙してきた。それでいいとは言わないが、そうでなくてはいけない瞬間が確かにあったのだと思う。

私はこのシリーズのファンでよかった。最後まで、見ることができて本当に良かった。

反復と先輩たち

エンディングで白崎が現れた時、私のメサイアのなかで一番好きなキャラクターが白崎護その人なので、一瞬信じられなくてそんで泣いた。白崎は今も悠里と共にあって、そして戦っている。

有賀といつきもだ。二人はメサイアとしてお互いを想って、お互いの中に生きる間宮の理想を抱いて今も戦っている。

ラストシーン。四人が舞台の上で並んで、駆け出して暗転する。暁だ。暁と同じだ。「刻」が始まった暁と終わる黎明がこうしてリンクする。戦いはまだ、その先にある。

暁と黎明の違いを調べて、開けない夜はないと思った。

まぶしいくらいの夜明けが、いつか零杯ノ日の朝に訪れますように。

*1:ごく出は永遠の新規で検索。

*2:初めてでなかったらすみません。

*3:サクラは、チャーチについて沈黙を守らなければならない
サクラは、チャーチを出れば二度と接触してはならない
サクラは、任務に失敗したサクラを救助してはならない
サクラは、友人や恋人になってはならない
ただ一人、例外を除いて――それがメサイア