サニーサイドアップフォーチュン

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舞台『駆けはやぶさ ひと大和』感想

まあ結論から言うと大号泣でしたわ。

でもたぶんあんまりこねくり回した感想はかけない。泣いてたからあんまり理解が追いついていないので。

 

もふ虎は死にゆく者の物語で、つむ鴨は残された者の物語で、かけ隼は生きていく者の物語だったのだろうと思う。生きているからこそ憧れ、死ぬ覚悟すら持って生きて、他者にそれを語る。そして描き、残す物語だった。死のう、死にたかった、と来て、最後は生きようという物語。

 

かけ隼の土方歳三斎藤一新選組の話だけあってとても人間臭い。なんというか、もふ虎は憧れられる者として描かれていたし、つむ鴨の土方は超えられぬ壁で斎藤は抜け殻(会津から見れば戦神)のよう。かけ隼でやっと、なんというか、落ち込むこともあるし、乗り越えなきゃいけないものもある、そういう存在として描かれたんだなって思った。

登り切るべき坂道は残された斎藤にとっては決戦の地たる田原坂であり、鬼として生き切った土方にとっては黄泉比良坂だったわけで。まほろばとは、また生き直さなければならない斎藤は未だ探し続け、部下がその逝く道を共した土方にとってその景色こそまほろばだったんじゃないかと、おいおい泣きながら思った。

 

主人公たち三人が良かったな。お調子者の中島、穏やかで優しい市村、真面目で向上心のある横倉。少年漫画的でとてもわかりやすく、そしてそれぞれを応援したくなる。愛おしいキャラクターだったと思う。あの三人の中で横倉だけが、あの墓に参ることができないことを悲しいと、2度目に観た時に思った。

花村さんの少年のような声音がまた良く、未成熟感が中島登という人がこれからも生き、そして己が為すべきことをなして行くのだということを感じさせる。

 

かつて、応援していた(今もしているけれど。ここでは役を降りたという意味に取って欲しい)俳優が沖田を演じていた身として、沖田の死にゆく様はあまりに悲しく見えた。

 いや、むしろ沖田くんが悲しいや悔しい、諦めすらも超えて死んでいくのが辛くて仕方なかった。沖田くんは刻一刻と近くなる死の気配を察して生きてる。剣に生きた人が最後に望むのが家族のように共にあった人との再会なのが、人間であるということを見せつけられているようでどうしても悲しい。長身の沖田くんを小柄な市村が抱き、頬を寄せる(ように私には見えているし見たい)姿が切ない。泣けるポイントはたくさんある。けれどどうしても一つを選ぶなら私はここを選ぶ。

 

死にゆく白虎隊の想いを一人継いだ飯沼貞吉。失われた故郷の全て(例えば松平容保公や新選組という集団への忠義、あるいは会津藩の誇り)を継ぎ、失われゆくもののふの時代へ殉ずることを選んだ中村半次郎をも背負う斎藤一。歴史が止まることのない流れであるなか、途絶えるものを継ぐ姿を描き続けたシリーズは、やっと語り継ぐ人を主人公に据えることになった。横倉は近藤の想いを継いだのだろうし、市村は沖田の想いを継いだ。それは土方に託され、中島が描いた。

残されたものは、殉ずることを選ばないのであれば、生きなければならない。生きなければならないということを、その継いだ物語を「幸せだった」と言える中島の、なんと主人公たることか。

笑いながら新選組を語る近藤、土方、沖田の幸せな姿を、その背中を、主とした中島が涙ながらに見つめるその幕引きは、あまりにも終幕に相応しいものだった。

 

正直いつもの通りの超時空大河ドラマであることは否めないのだが、そして気にならないと言ったら嘘なのだが、でもどうでもいいかなとは思ってしまう。それほど揺さぶられるものがあるし、そういう力のある作品だ。

 

観ることができて、本当に良かった。

私は、その僥倖に感謝している。