サニーサイドアップフォーチュン

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『極上文學』の感想的なもの

誰でも一冊は本を書ける、人生という名の本を!

もっと読ませてくれよ、つまんなかったら破り捨てる! 傲慢にっ

    月永レオ 『あんさんぶるスターズ!』より

大元のストーリーは『風の又三郎』にのっとり、具現師の方達はみな子どもとして客席を駆けていた。競争に客を巻き込んだり、ふざけてみたり。「あーー」という発生の練習をして、それでふざけているものだからわからなかったが、始まってみればそれが風の音だった。

 

語るための「私」という役があった春琴抄と似た、「語り師」が物語を読む。『風の又三郎』を軸として、入れ子の物語として『よだかの星』が描かれていた。

一郎や、嘉助や、三郎が、先生がみなに読むように言った「よだかの星」が馴染んでいく三郎と馴染めずに星になったよだかの対比なのかなとか。

人は、異なるものを受け入れることがとても難しい生き物だ。だからこそ、わずかに心が触れたとしても、ちょっとしたことで離れてしまうんだなとか。

 

宮沢賢治という人の持つ物語性が、色濃く反映された作品だったのだろうと思う。極上文學では本それ自体が魂であり人であるから、また逆も然りというか、人もまた物語で魂であると感じるというか。

例えばあの司書(?)さんがあの服から、あの言葉から推察できる「誰」で合っているのかとか。語り師が出会ったあの青年が「嘉助」なのかとか。物語を読んで語っているはずの語り師もまた物語の登場人物でしかないということを表しているように感じる。

 

たとえば、全ての言葉がどこからきたのかは、その人の教養やキャストの話をちゃんと読んでいれば分かることで、平等に与えられた解釈の機会だ。

いくつもの物語を重複したことで、こうやって客に考えさせる余白が増えたのかもしれない。章扉が増えて行くように。

 

如何様にも解釈できるということは、どの解釈でも正解でないということで、それはまた「違うこと」の「さびしさ」であるように感じた。

 

ヒーリングCDみたいな作品で、なんも考えずに見つめてるだけで良いというか、変に気を張る必要もない静かな舞台だった。

朗々と声が合わさって響いて行くのが何かに似ていると思って調べたら、諷経というらしかった。今までの極上文學でそれに似ていると思ったのは初めてだから、宮澤賢治のおかげかなと思う。