サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

『劇場版 仮面ライダービルド Be The One』の感想など

ありがとう仮面ライダービルド。こんなにもコンテンツのファンとして一年楽しめて、茶の間として一年楽しめて、私はあなたに感謝をしている。

若手俳優厨から足を洗いかけているのも、俳優厨時代に犠牲にした人間関係や感情を取り戻しつつあるのも、全てビルドにハマってコンテンツのファンとなり、ビルドが終わって正真正銘の茶の間になる故だ。私はビルドが終わったら、ビルドが残してくれた行間を見つめて日々を無為に過ごすのだろう。

 

そんでもって、このエントリは最終回を前に、映画を観てきた結果と「仮面ライダービルド」を心から愛し、心から楽しかったと思っている私が書く、感想よりも一つ前の、思い出話にしか過ぎないエントリである。

だから、もしもこのエントリの後に、ちゃんと誰かに読んでもらうことを前提にして、最終回までの感想をまとめていたとしても、ここに書いてあることを清書しただけかもしれないし、もしかしたらもっと読みやすく書いているかもしれない。そういう意味で、このエントリは多分とても読みづらいし、気持ち悪い。

そういうことだから、ほんとごめんね。

 

 

 

「信仰」と「思慕」

戦兎くんのことが好きすぎる龍我と、龍我のことが好きすぎる戦兎くんの、感情のぶつかり合いが主な話の主軸で、繰り返しである。

戦兎くんや、龍我だけじゃなくて、例えば一海なら故郷への、幻徳なら父親への、仲間への、家族への、科学への、技術への、正しいかどうかはわからない信仰と、純粋な思慕の話だった。

であるがゆえに、ビルドという話は論理的な正しさよりも、感情による選択が基本的な話の展開のきっかけで、それが物足りないと感じる人もいたと思う。

マジでずっとそうなのだ。戦兎くんの龍我やお父さんや科学への想いは、戦兎くんの中の信仰であって、龍我の戦兎くんや科学やライダーへの想いは、時に戦兎くんのそれと相反することになってぶつかったり、奮い立たせ寄り添ったりする。他のみんなの想いもそうで、その感情(つまり、ハザードレベルなわけだが)を起点にエボルトの計画も戦兎くんの対抗策も推移して行く。

だから何度だって戦兎くんや龍我はお互いのために命をかけるし、カズミンは故郷や仲間のために、幻さんは父親や国のために何度でも命をかける。ゆえに、何度も同じ姿を描いていると感じるんだろうと思うし、実際何度も描くことになる。

でも考えてみてほしいのは、私はメサイアを履修しているわけで、何度でも誰か(何か)のために命をかけることが、その人の心のありようを支えるという作品に馴染みが深い。しかも、それが唯一の相手にだけ向けられているというのも馴染みが深い。

信じてくれたこと、正義のヒーローたること、一緒に戦ってくれたこと、戦う力をくれたこと、奮い立たせてくれたこと──そういう積み重ねで(あるいは、それだけで)、その人のために戦えるということへの馴染み深さ。それが私が、もしくは私のような人間が「仮面ライダービルド」に対しのめり込む一つのきっかけだったのかなとは思う。

そしてそれが、決め手でもあった。

何度も繰り返し、離れて行く相棒を求めて手を伸ばすことも、何よりも相棒を優先して己を犠牲にすることも、字面にしてしまえばただの反復でしかない。その演出としての反復など私のような人間にはどうでも良くて、戦兎くんと龍我が自分の信仰と思慕に基づいて、何度同じ問いを繰り返しても、同じものを選び取るという絶対的な自信が欲しいのだ。何度も同じ答えを出せるという、ずっと同じ想いを抱いていてくれるのだと、私たちが信じることが出来るある種の「永遠」──それこそが、『仮面ライダービルド』という作品の魅力であると思う。

 

『らしさ』とは

ビルドのテーマは「仮面ライダーそのもの」だと言う。私はこれまで仮面ライダーにほとんど触れてこなかったので、ビルドが描こうとした『らしさ』は、逆説的にビルドから学ぶことになる。並行してオーズやエグゼイドやドライブを観ているから、それと比較して『らしさ』を判断していくことになる。

そして、私は同時に『ヒーローらしさ』も学ぶことになる。なぜならキュウレンジャーしか知らないからだ。

映司くんの怖いくらいの自己犠牲や、警察官や医者としての自意識──つまり、それが『ヒーロー』というあいまいな定義を担ってると感じていて、ビルドではそれが仮面ライダーという正義のヒーローであること」に集約されていた。

ヒーローであることによって彼ら自身は規定されるし、ヒーローであるから戦う。

戦兎くんと龍我は、二人は「ベストマッチな奴ら」ではあっても「メサイア」ではない。「サクラ」ではないから、二人(のうちどちらか)に何かあった時、涙を流すのは互いだけである必要はない。二人はお互いだけのために戦えない。「正義のヒーローである」という意識が根底にあるからこそ、自分の相棒としてだけ立ち上がるのではなく、ヒーローであれと言う。『ヒーローらしさ』そのものが軸になるところに、「仮面ライダー」そのものをテーマにした『ビルドらしさ』を感じるな、と思うのだ。

まぁ実際の「テーマが仮面ライダー」っていうのは、改造手術とかスカーフみたいな首元のモチーフとかそういうことなのかもしれないけれどね。

 

劇場版 仮面ライダービルド Be The One

映画の感想も、ここにまとめてしまう。

https://www.instagram.com/p/BmDWu1YBa_H/

#仮面ライダービルド #ビーザワン 何度見ても同じところで新鮮に泣きました。ルパパトのところは写真撮るの忘れました。

全体として

何度見ても、同じところで同じように泣いた。

話としては「また」龍我が敵方に行き、戦兎を追い詰める話で、困った時のベルナージュなのだが、まあなんかそこはいつものビルドなのでどうでも良くて(たぶんどうでも良くないと思っている人もいると思うが、私にとっては些末事なのだ)、葛城巧と桐生戦兎、桐生戦兎と万丈龍我、葛城忍と桐生戦兎(葛城巧)っていうのがめちゃくちゃ重要なんだろうなっていうのは、頭の良くない私でもわかる。

葛城巧がスカイウォールの惨劇以降の記憶──「ライダーシステムを開発している」記憶を戦兎くんに見せないのは何故なのかって考えると、戦兎くんが何も覚えてないのにお父さん(葛城忍)の言っていた「ラブアンドピース」という理想を体現しようとしている、ということに巧的に思うことがあったのかな……のような馬鹿すぎる感想を抱いている。

ラブアンドピースは巧が実現させたかった「正義」であるはずだし、もしかしたら何も持たない空っぽの戦兎くんがそれを体現することに嫉妬したり、「悪魔の科学者」としての記憶の影響なくそのままでいて欲しいと思ったりしたのかもしれない。(この発言はあまりにも行間しか見ていない)

戦兎くんは巧であるから、もちろん巧の過去である父との思い出もまた戦兎くんの中にある。「空っぽ」だと突きつけられて、これまで戦兎くんを「桐生戦兎」たらしめていた龍我や美空という人間関係も奪われて、その中でお父さんの「ラブアンドピース」が記憶を失っていた時から戦兎くんの中にあって、本当の空っぽではないということ。龍我との出会いはブラッド族に仕組まれただけではなくて、時が満ちればやって来るものであったということ。そういう「葛城巧」としての過去が、戦兎くんを支えたのだなと思う。

私の世代的には「ひとつの陽だまりにふたつはちょっと入れない」*1と思っていたので、別々の存在なようで一人だということが戦兎くんを救うこともあるのだと思って泣いてしまった。

 

Be The One

戦兎くんを戦兎くんたらしめているたった一年の、その中で最も鮮烈な存在として龍我がいること。この一年かけて繰り返し描き、視聴者にとっては当たり前すぎる事実のそれを、戦兎くんが「大切な相棒」と語ること。龍我から手を伸ばすハイタッチ。あれだけ本編でお互いのために命をかけてきながら、初めて示される明確な「相棒」の仕草。

そりゃあ泣くよね。

まさか物理的なBe The Oneだとは思ってなかったけれど、味方として駆けつけてくれるはずだった相棒が敵として現れて、やっと共に戦うのが物理的な一つとしてで、なんかもう良かったね戦兎くん。敵に取り込まれて一つになってた相棒を引っぺがして自分と一つになるっていうのは、胸が熱くなるものがある。

 

カズミンと幻さんとみーたんと紗羽さん

カズミンと幻さん、めちゃくちゃかわいい。

「Be The One」というサブタイトルで、実際に一つになるのは戦兎くんと龍我なわけだけど、カズミンと幻さんもまた二人でずっと行動してるし、二人で面白シーンを担ってる。葛城父のシーンで泣いてたり、戦兎くんの独白に泣いたりしているのにカズミンと幻さんがマイペースだから涙引っ込んでちゃんと笑える。

で、バトルシーンがめちゃくちゃカッコいい。才賀が女性形態を取るからかどうやら本気で無かったような幻さんのクールな勝利もめちゃくちゃかっこいいし、カズミンの「ひれ伏せぇぇえ!!!!!」は迫力が半端でなかった。ゴミみたいな語彙力で本当に申し訳ないのだが、そこはもう機会があったら観て確認して欲しい。というか私と見る?

みーたんと紗羽さんが抵抗できずに敵に回る姿が辛いが、二人も二人で支え合う姿がまた良かった。便利すぎるベルナージュ様のパワーは、龍我にほとんど使ってしまったが故か、以前よりはるかに保つのが辛そうで、男達はみんな戦いに行ってしまっているから、それを紗羽さんが支えている姿が健気で守りたくなる。

ところでベルナージュ様は本当に便利な力をお持ちだが、そろそろマジで魂が消耗してるんじゃないだろうか。

 

ブラッド族

伊能と才賀と郷原は、もうすでに身体の全てをブラッド族に食い尽くされていたってことで良い? もしくは火星で死に、姿だけをコピーされたとか。

憑依していただけのエボルトはブラッド族の中でもパンドラボックスの力を扱えることからたぶん上位の存在だよね。人間の脆弱な体を使わなくても仮面ライダーとしての力があったからそれを取り戻すことが目的の一つだったわけで、怪人態もあるし。

郷原はスマッシュになる時血のような液体に一度なっていた。それはたぶんもう本来の郷原の体はもうないということになるよね?

伊能が変身する時に龍我を使ったのは、エボルトを使えなかったからということだと思うんだけど、龍我の中のエボルトの遺伝子はベルナージュ様によって沈静化はしているけれど、事実として存在しているということで良き?

ブラッド族については私の理解がまだ追いついていないのかそれとも説明されてないのかってところなのでこれからもっとわかりやすくなるのだろうか。

 

最終回へ

いよいよあと3話である。

まずはカズミンの生死、戦兎くんと龍我の関係、頼むからみんな生きて最終回を迎えて欲しいし、ジオウがもう目前だと思うと卒倒しそうである。

最終回までこれまでの反復をきっと繰り返すってことは、わかっている。で、それが「またかよ」って言われたりしてる一方で、「やっぱこれだよ!!」となってたりもするんだと思う。

私はそれで、まあ泣くんだろうなって思う。

そんで、行間を見つめるんだと思う。

 

追記

今確認したら何故か「観劇」のタグがついていた。恐らく「舞台」のグループに表示されていたかと思う。カテゴリ違いだった、申し訳ない。