今年も配信のありがたみを感じて生きていこう
たとえ集中できなかったとしてもね。
SuperMのMトピア
リリウムとドボの北海道旅行見たさに入ったU-NEXT、未だ入りっぱなしで、韓国の歌番組垂れ流して昼寝したりとかしてるんだけど、1月から配信始まったこれを観ている。
毎週金曜に最新1話更新らしく終わるまでU-NEXTは入っていないといけないな、と思うくらいには面白かった。現在2話まで観た状態でこのエントリを書いている。
名前と顔が一致する人としない人が半々くらいだった状態から、一時間見ただけでなんとなくの性格もわかってくるからリアリティっていうのは最高。
芸歴にも差があり、知名度にも差があり。それを超え一つのグループとして仲良くなっててすごいなと思う。お兄さんがお兄さんしてるところいいよねやっぱり。
[GOING SEVENTEEN 2020] EP.44 TTT #1 (Hyperrealism Ver.)、[GOING SEVENTEEN 2020] EP.45 TTT #2 (Hyperrealism Ver.)
昨今外で遊ぶ雰囲気でもなく、かと言って平日家から一歩も出ないのに土日も一歩も出ない*1んじゃ人として終わるのでは、と危惧していたところ、家ならいいだろと近所に住む友人がドーナッツを持ってやってきた。同じ境遇、同じ趣味、持つべきものは友人である。
彼女は私のKPOPの先生にあたり、またお互い全くcaratでもないのだが、YouTubeを垂れ流していたなかこの動画に行き着いた。
酒飲んで遊んで酒飲んでる動画である。笑える。
舞台 PSYCHO-PASS サイコパス Virtue and Vice
PSYCHO-PASSっていうのは見づらいセット組まないといけない条例の下やってるんですか?
ストーリー、役者の皆さん、カメラを使った演出含めて本当に素晴らしかった。PSYCHO-PASSらしいギスギスした関係性・他人に不快感を与えるために計画された事件の背景に何があるか、どのように紐解かれていくのか。またとても貴重かつ演出に限りがあるドミネーターを使わない(電波暗室)という合理的な判断と、それに伴い素手でのアクションを多用することによる『劇場版 PSYCHO-PASS』を彷彿とさせる山場の作り方など、とてもスリリングで面白い作品だった。最後の方はちょっと舞台によくある「エモーショナル」な雰囲気を感じもする。
なにより序盤や会話で使われたものが後半にもまた登場する気持ちよさが最高。一度出てきたものは何度出てきても良い。チェーホフのドミネーター。
アニメPSYCHO-PASSがシステムや社会構造である中、人類としての善性や思考が何に基づくものであるのかという命題がこのPPVVなのかなと思う。もちろんそれが人間らしさの一部であり、人間が社会を形成するにあたって何を切り捨てるのかの話である。
観ている中で「頭がガチガチのマニュアル人間」九泉と「執行官にも優しい温和な人間」嘉納以外に外部への接触を取れる人間はいない。執行官は監視官無くして外部に出ることが叶わないからだ。つまり、「裏切り者がいる」と観客は明かされた時点で、九泉か嘉納であると容易に想像できる。にも関わらず私は、嘉納が目白に向かって発砲することにショックを受ける。嘉納の善性を信じているからである。
善ってなんだと思う。善っていうのは、突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。*2
嘉納にとっての善とは大城の憧れとしての「色相がクリアな監視官としての自分」であり、それを偽るシビュラは壊すべきもの。
結局この人の行動原理が1番わからない。が、確かなのは大城が憧れるからこそ事実を知ったあとも潜在犯にも戻れず、九泉やシビュラの目線のある中ではクリアにもなれず。その原因を作ったシビュラへの私怨なのだろうなと。
九泉にとっての善とは「母を殺さないこと」であって、「母を殺したPTSDによる色相悪化」ではなく単純な「本来潜在犯であったことによる色相悪化」はシビュラに楯突く理由にはならないっていう対比が良かったな。中国語の部屋たる九泉の思考、シビュラによって作られた程度のことなる哲学的ゾンビ同士の思考実験、そういう作品。
ラストシーン、二人とも犯罪係数が300を超えているけれど、一度改竄を行うと明言されたシビュラの数字が正しいと信じて良いのか観客はわからない。九泉、嘉納ともに本当に300を超え、エリミネートされるべきであったのか?
いや、もはや全ての犯罪係数とは。みたいな。
ホールは中国語の部屋だ。中には程度の違う哲学的ゾンビが二人。放り込まれた事件の出力結果を受け取るのはシビュラ。中身のことはどうだっていいんだ。