サニーサイドアップフォーチュン

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感想『ミュージカル ボディーガード』『機動戦士ガンダム00 -破壊による覚醒-Re:(in)novation』『21年月組公演 「桜嵐記」』『19年雪組公演 「壬生義士伝」』

ミュージカル ボディーガード

あまり好みでない公演だったので良い記録にならないことを先に謝罪しておく。

映画「ボディーガード」は1992年公開の映画であり、申し訳ないが流石に年齢的な問題で観たことがない。観た方がいいかもしれないと考えてはいるが、この記録をつけている段階ではまだ観ていないことも併せて謝罪しておく。

とにかくレイチェルの歌唱シーンが圧倒的尺を占めてあり、「ミュージカル」と銘打っているからには歌での掛け合いや心情の吐露が登場人物間であるのかと思っていたが特にない。とにかくレイチェルが歌い、歌い、たまに姉のニッキーが歌うけどもほぼレイチェルが歌う。曲は映画で使用された曲のようで、ホイットニー・ヒューストンが当時歌った名曲らしく、こちらはいくつかは原曲も聴くことが出来たがカッコ良かった。

つまり、ミュージカルというよりは挿入歌をその場で歌ってしまってるというような感じで、あまり歌がある意味がないというか、ショーのシーンで歌唱があるのはストーリー上理解できるのだが、「歌を使って登場人物の感情を表現する」という構造になっていないと思う。レイチェルの心情の表象としては意味があるのかもしれないが、私にはあんまり機能してるようには思えない。さらに姉ニッキー(演:AKANE LIV)以外にも歌えるキャスト(少なくても入野自由大山真志は)が揃ってる中で、彼らにはエンディングのワンフレーズしか歌唱がないという非常にもったいない公演である。

元が映画である以上仕方がないことであるが暗転しての場面転換が多く、レイチェルの歌唱はこの間を持たせるためには機能していたと思う。ぶつぶつとシーンが変わるのでレイチェルがしょっちゅう着替えており、この早着替えに関しては単純に感心する。

あとは、ストーリーの話で言えば、幼い頃から人気者のレイチェルに対しニッキーはコンプレックスを抱いているのだが、そういった盛り上がりの要素を掘り下げたりドラマチックに演出したりしないあたりがレイチェルとフランクのロマンスがメインであるゆえという、これまたもったいない印象である。わざわざ妹ではなく姉にしてるところも、最終的に嫉妬の報いを受ける形になるニッキーが、ニッキーの中で一切の解決を見せずに勝手にレイチェルの中で夢に寄り添う存在になる正当性*1のようになって好みでない。前述の通り映画を観ていないため、このコンプレックスの描き方が映画と舞台では異なるのかもしれないとは思うが、どうにもレイチェルとフランクの恋愛模様も唐突さが滲んでハマれない自分がいた。序盤は、脅迫状が届いていながら呑気でいる周囲のスタッフの非合理的さに疲れていた。スマートフォンやインスタグラムの話が出ることからも現代のストーリーではあるようなのだけど、ゆるゆるの警備設備が今の時勢のスターの周辺としては非常に納得感が薄いと思うし、曲やテイストは30年前のものなのだから無理して現代にせずに30年前のスターとして描けばいいのになぜ微妙に現代に寄せるのだろうと思った。そういう意味で言えばハリウッドっぽいウィットに富んだ会話もやや上滑りを感じるが、多分これはあまり大谷さんのイメージにそういうものが向いてないのだろうと思う。バレーボールネタは大谷さん仕様で良かった。

May J版を予定が合わず観ていないのだけど、個人的には新妻聖子版より柚希礼音版のレイチェルの方がしっくりくる。新妻さんは確かに歌は大変お上手で声もよく通り可愛いが、どこか少女然としており「女王」感は薄いと思う。歌も芝居もかなりフラットな印象だ。ただ、皆から愛されて蝶よ花よとされてきた妹感は強い。柚希さんのレイチェルは歌唱シーンの合間の辟易とする仕草や、堂々とファンの声に応えようとする強さなどを感じた。歌も柚希さんのレイチェルは込められた感情の違いを汲み取ることができると思う。あと体幹がしっかりしていてダンスが良い。当たり前だけど。

入野自由ファンなので彼の話をすると、あまり出番のない中、虚ろな目で抑揚のない声で、気色悪さよりも狡猾さが目立ってそこは良かった。性暴力を懸念されるストーカーより、狩りを楽しむサイコパスのように見えているのは、私の一方的な願望も関係ある。誰だって好きな俳優を性犯罪者予備軍の役として見たくはないと思う。一方で、ちゃんと薄気味悪く、陰湿で卑劣な犯罪者として見えているのは良いことで、これが可愛い一人のファンにしか見えないのであれば、私の認識だけでなく彼の役作りに問題がある可能性だってあることになってしまう。

全体としてあまり好みでない公演だったが、最後に入野自由にタップダンスをさせたことは評価したい。

 

機動戦士ガンダム00 -破壊による覚醒-Re:(in)novation

前回公演はこちら。今回も前回と変わらず、シリーズのファンとしての甘々採点でお送りしています。

新型コロナウイルス流行の影響により、一度中止になった本作ですが、ようやっと上演となり、2日ほど遅れが出たもののどうにか千秋楽までやり切った苦労のカンパニーである。

まず、あれだけのモビルスーツ戦を表現するにあたって、人力でコックピット用の椅子を動かしているアンサンブルの皆さんのお仕事が今回も光っている。

怪我なくここまでやり切ったこと、大変な苦労であったと思います。お疲れ様でした。

前作と変わらず、ストーリーのかいつまみ方がうまいと思った。私はテレビシリーズ視聴済み、映画までは観ているダブルオーのファンである。そのため基本的にどのような速度、どのようなストーリーの取捨選択があったとしても全くもって問題ない観客ではあるのだけど、特にダブルオーのファンではない友人も展開を理解して観ることが出来たと聞いたので、恐らくはこの取捨選択で問題なかったのだろうと思う。

2.5次元舞台というのは、往々にして原作のストーリーをそのままに舞台化することが正とされる雰囲気があり、基本的にはそのように求められるものである。ダブステは1st後半からオリジナル要素を含めること、また全体としてキャラクターのエピソードを取捨選択することでその2.5次元舞台における雰囲気に反しつつ、大まかなストーリーラインに違和感を抱かせないという器用さがある。今回、特に後半あたりややその大味感を拭えないところもあったとは思うが、例えば冒頭のスメラギとビリーのエピソードや、捕虜であるアレルヤの脱走のエピソードをガッツリ削ったのは英断だったと思う。また、擬似太陽炉のGN粒子の毒性についてもカットされたため、ラッセが元気そうで良かったし、ルイスにも細胞異常は起こらず……ということになるが、細かいところだがこの毒性の話がないとルイスは別に再生治療を受けても良いのではとか思う。そもそもこの治療のためにナノマシンを服用しそれにより脳量子波が使えていたことなどの描写がない。ダブルオーライザーのGN粒子の影響で細胞異常が完治し、さらには刹那が脳量子波を操れるようになる描写もないので、もしかしたら刹那が本当の意味で「進化」を遂げたイノベイターであると初見の人はわかっていないのかもしれないと思った。「わかりあうこと」に希望を見出すからイノベイターじゃないんですよ、脳量子波における高次元での情報処理と理解が定義だと思います多分。私が沙慈のことが好きなのは、刹那が変貌していく一方で、彼はあくまでも普通の人間のまま、戦場ではない場所で生きていくことを選ぶからなんですよ。

そんな中、ガッツリどころか存在がなくなってしまったマリナやアニューが象徴する「わかりあうこと」だけど、結果的に沙慈とルイスに全部載せされていた。実際はルイスは自分の手でネーナを討ち、復讐では癒えない孤独と罪の意識と共に生きることになるのだが、今回はそれが変更になり「対話によってわかりあうこと」を世界に知らしめていたのは沙慈とルイスを放送当時から応援している身としてはアリだった。ルイスがあんまり苦しまないなら何よりだと思う。これ映画まで舞台になったら、刹那は最後誰のそばで対話について真の理解を示すのだろう。沙慈とルイスかな?

マリナの不在によって「平和的に対話でわかりあう」マリナと、「戦ってでも対話に持ち込みわかりあう」刹那という対比が消えて、刹那の主張の中に全てが組み込まれたことで、刹那がリボンズに手を下すことが物語上難しくなってグラハムが台頭するのはちょっと笑った。

そしてその一方で、割を食ったかなというのがライル*2である。サーシェスが不在の状況で、彼が唯一生き残った肉親を殺したサーシェスとまみえることも出来ず、アニューとの悲恋もなく、漠然と兄の跡を継ぎ、どうやら兄へのコンプレックスもロックオンとしての役目の中で氷解したものと思われるが刹那には沙慈やグラハムが、アレルヤにはマリーが、ティエリアにはリジェネがいる反面やはりライルのエピソードは薄く、もうちょっとフェルトが食い込むのかと思ったがそれもなかった。リボンズにとどめを刺すという意味で、印象的な役目は果たしたとも言えるのかな。

サーシェスの不在に関してはもう仕方がないことで、藤原さんも窪寺さんももう居ないなか、別の方をキャスティングしたりせずに上演されたことは意義のあることだと思う。アーカイブ音声という演出も、さらにそのお名前にまた拍手を送れたこともとても良かった。

オリジナルイノベイド・イースだが、そんなサーシェスやブリング、デヴァインの不在などで不足するイノベイド側の戦力を補強し、サーシェスっぽい立ち回りをしつつヒリングとツートップのバランスの良さもあり、違和感もなく良かったと思う。サーシェスが不在であったことでリジェネもよりカッコ良く戦死することになり、イノベイド側の魅力として上手く活かしたように思った。ガデッサガラッゾ始めとしたMSシリーズが消え、imitationとしてのガンダムシリーズという搭乗機が出たのはちょっとやりすぎかと思ったけれど……。

変わらずライティングも綺麗だったし、ビーム兵器の表現もカッコいい。演者さんたちも皆良かった。お気に入りはティエリアとリジェネのコンビ。聡明で美しく、とても好き。

ラストシーンの『Trust you』エンディング映像を意識したであろう演出も泣けた。そもそももうオープニングで『儚くも永久のカナシ』が流れてくることで100点みたいな気分になっていることは否めない。

というわけで、正直思い出補正もあると思うけれどとても楽しかった。

 

21年月組公演 『桜嵐記』

淡々としているけど序盤から死にに行く話なので全編うっすらと狂気が滲んでいる。死ぬ覚悟で仇討ちを狙う弁内侍、無駄だと分かっていながら父祖の御霊のために戦い続ける後村上天皇、負け戦に出向く楠木正行と、死に急ぐ登場人物ばかりだ。しかも、既に死したはずの者が何度も出てきてまだ生きている登場人物たちを縛る。戦をしない世の中を目指す話というより、どんな使命を自分に課してそしてどこで死ぬかということが重要になってくるので、終始暗い。私はこういう、何に殉じるか*3という話は舞台として結構好きな部類なので楽しく観た。

衣装の色彩などは日本物らしく大変優美で、戦の場面すらグロテスクさを抑えられた舞のような印象だった。南北朝時代という、日本史の中でもかなり多くの人があやふやな時代設定であることから、幕が開けてすぐ説明が入ったり、登場人物の名前をしっかりアナウンスしたりととても親切だと思った。

こういう救いのない話は好みが分かれるのではないか、とも感じた。

 

19年雪組公演 『壬生義士伝

「石を割って咲く桜」が大名曲なので、とりあえずそれを聴くために観てもいいんじゃないかと思う。

新選組を描くと大抵は夢を追い、仕えるべき主君を失くしてなお己が一度信じた道を全うするべく箱館まで進む──というストーリーになると思うのだが、『壬生義士伝』(原作未読)はそういう話じゃない。主人公・吉村貫一郎はかなり泥臭く、常に金勘定をし最期も別に戦場で華々しく散るわけではない。一方で家族のために死の間際まで金の工面のことを考え死んでいく一貫性は魅力的だと思う。大坂城新選組として赴いていたらその後に待つのは転戦のみであり、剣と共に洞察力の高さを買われている吉村があわよくば帰郷、悪くても所持金を家族へと送ることが出来る算段をつけたように推察できる流れなのはよかった。

ただ、コロコロと場面が入れ替わるため各エピソードが短く暗転が大量に発生しテンポが良くない。また基本的に吉村がなにか志や己の生きる意味を思想や理想に求めるわけでないため地味で、新選組ものに求める派手さもドラマチックな散り際もないため盛り上がりには欠けているのかな。

*1:姉という存在の妹から見た年長者としての偶像のようで

*2:彼はロックオンを引き継いではいるものの、ロックオンといえばニールであり、ついライルのことはライルと呼んでしまう。

*3:日本人は何かに殉じる話が好きだよな、とも思う。