ジェーン・ドゥの解剖
怖かった!結局エマのことも天気も全部の彼女が見せてた景色での出来事であって、実際に起きてたことじゃないことで恐怖して巻き込まれたってことで良いと思うんだけど、そうであるなら「彼女と自分は関係がないのだ」と自覚して死んでいった親子が切ない。彼女が魔女だったのか、何らかの生贄となっただけなのかはっきりとはせず、彼女が何か直接的に動いたりする脅威として機能せずにいたのがすごくよかった。そこにあるだけで怖いというのが良い。
ご遺体のグロテスクさへのこだわりがすごいので、そこへの一般的な嫌悪感は別にして、悪魔や魔女、聖書というような欧米のスタンダード怪異をねっとりやっている感じはあんまり予想していなかった部分でもあり楽しめた。もっとサスペンスっぽい感じの進みで、怪異としても怨霊系かなと思ってたので。
首
意外と面白かった。武士の何たるかというこだわりや美学や嗜み一般に対して、豊臣の兄弟があんまりどころか全く理解を示さずにいて、その視線はコミカルで冷めている。そういうもはや天下そのものに対してもめんどくさいかのような振る舞いが面白おかしかった。戦のグロテスクなところと会話の面白おかしいところがはっきりしているし、なんかこうしたら面白いだろうみたいなのが随所あって、全然思ったよりも楽しめた。
武士の美学ってやつに対してはっきり言って老齢の北野武が「しょうもない」と感じるような物語を与えたことに驚いた。そういうの好きじゃないんだ、そこに浪漫を感じないんだというのが、私の偏見がもたらした見方だなと思った。これだけ全ての人間が、己や他者の首を手に入れることに執着してきた映画で、最後に「そんなことはどうでも良い」と言って終わる妙な清々しさがいい。誰かの死を確かめたりする「結果」のために首が存在するはずなのに、首を差し出すことへの武士的な生死が本当にどうでもよかったんだろうな、秀吉は。
また衆道に対して艶めいた眼差しが全然なくて、コミュニケーションツールの一つではあってもそれを嗜みとすることに対して豊臣秀吉が全く共感をしていないのが、秀吉が武士と一線を画した存在ということなのだろうな。だからこそ、この映画の秀吉が外側からこの「本能寺の変」という物語を見つめ、武士の何たるかや好いた腫れたの感情を利用しながら操ることができたんだろう。あと、衆道をなんというか、武士ですしそういうものですというような平坦な扱いをしていて、淡々としていてよかった。