サニーサイドアップフォーチュン

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『ピアフ』&『民衆の敵』の感想

舞台の話

たまにはこういう舞台も観に行っている。

きっかけはレコード大賞で歌う大竹しのぶさんの迫力だったし、決め手は「生で上遠野太洸が見たい」という単純かつ阿呆な理由からである。チケットを取った時、ちょうど私はドライブを見ていた。

エディット・ピアフという人の一生を表現するにあたって、例えばもっと歌が上手い人がいるだろうということもわかる。だがこの舞台はおそらく大竹さんのためにあるのではないかと感じるくらいには、大竹さんオンステージだった。

すべては想像力だと思う。一人の人間が一人の一生を演じるのであるから、もちろん自由自在に若くなったり、年を取ったりなどはできない。それを想像させること、想像できることに感動する。特に年齢を説明されたりはしないけれど、そうであることがおのずとわかる。もちろんそれが「舞台のセオリー」であるからなのだけれど、余計なものを排し進んでいく物語に対して、自然に時の流れを受け入れることができる。そういう自然な流れの作品だった。

歌を何度も歌う。ピアフのステージや、彼女の連れてきた才能ある若者のオーディションなどで。もちろん、どの歌もとても良かった。

上遠野さんは、とてもかわいらしい役だった。動くこともままならないようなピアフに対して、無邪気にあこがれを表現する愛らしい人だった。ピアフでなくても、あんなふうにまっすぐあこがれを向けられれば、彼のことを好きになると思う。子犬のような顔立ちの方なので愛らしい役はとてもお似合いだと感じたが、それにしても良い声であるので、それがピアフという女性に向き合う一人の男性という感じでとても良かった。繰り返すが、とてもお似合いの役だったと思う。歌も大変お上手なので。

ピアフのあの、性に対してあけっぴろげで、鷹揚なあり方が、最高に内向的な私には到底理解できるものではなかったけれど、彼女は愛を歌うにあたって愛するということそのものを愛したのだと思う。

 

次の舞台はこれだ。

 

この作品は正常な判断をする人が誰もいない。そう思った。

トマスがまるで想像もせずに行動に起こすところも、重要なことだと喜んだ人間が手のひらを返すさまも、器の小さい兄も、正義に生きる娘も、まともな人が誰もいないと思った*1

何が正義か、ではなくて、何を正義としているのかで登場人物のスタンスが変わるし、みんながそれを一切曲げない。そのためにある物事を取り巻く状況や認識の仕方に変化が訪れたら、自身の正義に則ってスタンスを変えるのが恐ろしいと感じる舞台だった。

あとは、あの量のセリフをやり取りし続けることに感動した。歌もなく、立ち回りもなく、ずっと繰り返される会話で話が進む。純粋にそのセリフ量や、変化する表情に、声音に感動する。人間が演じる、という行為を尖らせていく、そういう印象だった。

まあ、包み隠さずに言えば赤楚さんを見に行ったわけだけど、ビリングの薄っぺらい感じがとてもよかった。きれいに響くあの特徴的な声が、誰かを糾弾するのはゾクゾクする。ビリングのあの若い感じが、考え方や振る舞いの青さが、打算的な側面を覆い隠そうとするために使われているあの感じ。とても興奮する。それにホヴスタとビリングの間にありそうな信頼関係もまた魅力的だと思う。あの二人の話だけでなんか書けるなと、私のオタクの脳みそが言っていた。

 

*1:船長さんだけはまともというか、地に足がついている。船乗りなのに。