まさかダブルオーが舞台になるなんて、10年前の私は思いもしなかったろうし、2.5次元若手俳優のオタク始めた頃の私も思ってなかったし、見るまで私も信じてなかった。
10年前の、ダブルオーをメインジャンルにしていた私。見てる? ダブルオー、舞台になったよ。
全体として
まあ何と言っても椅子について触れざるを得ない。めちゃくちゃ頑張ってたと思う。物理的に。
千秋楽後、どのような流れであの演出が、あのMSが生まれたのかツイートなどしてくれたが、工夫と熱意のなせる業だったのだ。あれに乗って殺陣をする――非常に突拍子もなく感じ、見えはするけども、あれを思いつき、動かし、ケガなくやりきったことがとてもすごい。尊敬する。
あとは掻い摘み方も良かったと思う。象徴的なシーン、セリフ、それらを畳み掛けるように物語を進めていくところは効率も良く、私は好きだった。私は2.5次元はスピード感が大事だと思う。
シナリオ改変の話
ミハエルが死ななかったことについては、私が歳をとったせいか、当時彼がマイスターなのにガンダムの中で死ねなかったからか、良かったねという感情。
クリスとリヒティは仲間の元で散った。ロックオンも看取られた。一期は確かに、仲間というよりかは目的のための組織でしかなく、その死がソレスタルビーイングにもたらすものが絆や生への執着だった。仲間の膝の上で息を引き取り、目の届くところで看取られるのでは、確かに孤独な死であった一期の悲壮さはないのかもしれないなと思う。
ただ、ミハエルと同様に、それは幸せなことだなと感じてしまう年齢になった。
それに、二時間程度の中でちゃんと描かれていた徐々に結束していくプトレマイオスのクルーの、その崩壊を見せられるだけでだいぶ悲劇だと私は感じている。というわけで、私は泣いていた。
キャラクターの話
マイスターが素晴らしい完成度だった。すべてにおいて素晴らしい完成度だった。10年前、子供だった私に教えてあげたい。
刹那のあの思いつめたような表情も、大人ぶる物分かりの良いロックオンも、憂いを帯びたアレルヤも、張り詰めた冷たいティエリアも、「いやマジで最高」と思った。立ち居振る舞いもアニメのままなら、スタイルや身長差もアニメのまま。こういう「2.5次元舞台を観てるが故の感動」を覚えたのは、本当に久しぶりだった。
グラハムの変人感はだいぶ薄くなっているように感じた。それはたぶんセリフの減少とかではなくて前山さん自身の気品がそうさせている。気障な言い回しも、ドラマチックな立ち居振る舞いも、すべてがぴったりで何の違和感もない。違和感のなさすぎる金髪碧眼である。
赤澤さんの演じるリボンズ、倒せなさそうすぎる。強そうで、何考えてるのかわからないところがリボンズだった。アレハンドロのいない今、リボンズが全てを操る必要がある。赤澤さんのリボンズには、それだけの““ヤバさ””があった。
心配なところ
とんでもない速度でストーリーをこなしていくことになっているので、予習してない人履修してない人にとって、それが楽しめない一因になっていたら嫌だなと思う。しかしまあ観客にチケ取り以上の負担を強いて良いのかはまた別の問題であると感じられ、「ともかくイオリア・シュヘンベルグが用意した説明書を読んでくれ」と思う。
個人的に、沙慈とルイスが描かれなかったことが悲しい。尺のことを考えれば仕方ないし、マイスターの姿勢と対比する形ですでに存分にトリニティの暴力性は描かれていたと思うので、充分ではあると思うけども、沙慈とルイスという言わばもう一人の主人公とヒロインがいないのは二期への主軸の一つを欠いてることになるので、どこか不安になる。
あとはマリナ・イスマイールの不在もそれに近い。舞台は「戦争の悲しみ」であるとか「戦争を失くすために戦うことの矛盾と犠牲」についてはとてもよく描けていたと思う。だがダブルオーシリーズ通しての一つの答えである「分かりあうこと」を象徴するマリナの不在は、そのまま「分かりあうこと」の不在であるように思えた。
これは二期を舞台化すれば解消されるのではないかと思う。
続きも見たい
続きも見たい。ダブルオーライザーも見たい。ブシドーも見たい。『儚くも永久のカナシ』のオープニングも見たい。
つまり私は大満足だった。