夜明けの星を待ってる

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朗読劇『ラヴ・レターズ』感想

1990年8月19日に日本初演の幕を開け、以来28年間、年齢も個性も異なった様々な延べ475組のカップルが読み続けてきました。

どんだけ上演してんだ。

というわけで、恒例の感想です。

お衣装

一部

犬飼さん:ベージュのスーツ、白いシャツ 前髪あり

大野さん:白地に青のストライプのヘムワンピース 後ろで髪をひとまとめに

二部

犬飼さん:ダークグレーのスーツ、白いシャツ 右目の上で少し髪を分けて

大野さん:赤いニットワンピース ダウンスタイル、毛先を巻いている

 

正反対の二人

「恋っつーのは正反対の二人がしてなんぼだぜ!!!」というあまりにも馬鹿すぎることを考えつつ、幕が上がった。

見終わった今、堅実な男の子と奔放な女の子という、幼馴染でなければ出会いもしなさそうな二人を主人公に据えて、すれ違いまくる話なのだなという馬鹿すぎる感想を抱いている。

例えば重なったからといって長続きする訳ではないというのは作中の言葉通りではあると思うけど、幼馴染であるというのはそういう二人を繋ぎ止める重要な理由だったんだろう。少女思考の私が、できれば二人で幸せになってくれたらと考えてしまっていたけれど、それは物語にはならないなと認識する冷静な私もいた。

正反対の二人は、セオリーだ。それは分かっている。だから、単純に結ばれないってことだって分かってる。それでも二人が結ばれて最期を共に迎えられる結末を夢想するし、それが物語ってものだなと思う。

 

「オズの国」

緩やかに落ち着いて行く犬飼さんの声と、大人びそしてまた「オズの国」に戻らんと少女になって行く大野さんの声の切なさが迫るものがある。

幼馴染であるということは、ごくごく幼い時間を共有するということは、とても不思議な感覚になるということを私は身を以て知っている。その関係の維持の難しさも。

幼い時間(オズの国)の象徴がお互いであって、幼く守られていたことの幸福を、大人になるにつれて思い返す。思い返すということの、方向性がまた正反対なのが切ないなと思う。

メリッサに遺されてしまうアンディーには、そういったノスタルジーの完全なる喪失もあったと勝手に考えている。

アンディーがメリッサに、メリッサがアンディーに抱いていた愛情が、かつて恋だったとして、最後まで友愛だったのか。愛すべき家族と果たすべき役割があるアンディーには、メリッサのようにはなれないわけだから、あの交錯したひと時ですら「オズの国」の延長なのではと思うと、きっと最後まで正反対の二人なのだろう。

 

朗読劇であること

私にとって、朗読劇と言えば『私の中の消しゴム』と『極上文學』である。映像、音、衣装、動きがあって、朗読であってそれのみでない。『消しゴム』はあの表現が最適解であって、『極上文學』は尚も表現を探求しているわけであるから、比べるような無粋な真似はしない。

ただ、単純に読み聴かせるために特化したものが、私にとっては初めてだった。

ともかく、その「朗読に特化した」スタイルが、最後にのみ崩されるのが良いなと感じる。メリッサがアンディーの方を見て述べる言葉が手紙ではないということも含めて、読み始めてから始めて視線が相手方に動くのがそこなのだ。これが書簡であることゆえかと思う。手紙のやり取りであるから傍らに相手が不在であること。メリッサが「手紙を読む目」から放たれてやっとアンディーを見ることができたのだなと思う。

 

犬飼くん、美しかったなと思い返している。

まつげ越しに溜まる涙が落ちて、とてもさまになるなと感じていた。

 

 しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。

「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」

 歳子は襟元へ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安も湧かなかつた。

 それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚に浸つてゐるやうな渺茫とした気持ちだつた。

『夏の夜の夢』岡本かの子

 

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#観劇 #ラヴレターズ