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感想 ミュージカル『薄桜鬼 真改』山南敬助 篇

ミュージカル 薄桜鬼 真改 山南敬助

先に書いておくが、全然全く褒める方向には向かっていない。

輝馬さんの熱量とお芝居がとても良い。山南さんという、性格の合理的さやこれまでのルートで見せてきた狂気などを内包し、羅刹そのものや羅刹と人間との線引きに対しどう向き合っていくのかを葛藤する様が良い。山南さんは誰よりも先んじて羅刹になっており、変若水改良や羅刹隊を率いた責任を果たさなければならない。自分が羅刹になってしまったことと人として生きたいと思う気持ちを描くのが、同じく早い段階で羅刹になる平助篇であるとするなら、山南篇は隊士を羅刹にしてしまったことと羅刹であっても生きていて欲しい願う話だと思うので、とても良い対比になっているのではないかと思う。終始小ざっぱりとした樋口さんの平助との張り合いもよい。最初に八百屋舞台を這い出る山南さんの演出もルートによってはラスボスであるキャラクターの主役作品としてとてもセンセーショナルで良かった。

正直私が「薄桜鬼」をプレイしたのは随想録までなので原作の内容は知らないのだけど、史実から早々に姿を消す二人であるからこそ誰のルートでも羅刹として生き、羅刹という「薄桜鬼」らしいテーマを描けるというのは感じた。

なので、もっと二人に時間割いて欲しいと思った。ただ一方で、山南ルートの処理しなければならない情報量も察した。総長としての山南さん、羅刹としての山南さん、千鶴を愛する山南さんと、今回の作品では一通り全部追おうとしているのは見て取れ、そこを取捨選択するのが大切だろうという気持ちと、山南さんが求めた居場所は本当は何一つとして損なわれておらず、山南さんがどうであれ*1そこにあるということを描きたいのだろうとは思った。また、山南さんがどうであれ彼が損なわれることがないのと同じように、新選組や千鶴がどうであれ損なわれることはないというのは、繰り返し何者であるかを問う声から感じた。

作りとして思うのは、とにかく抽象度が高い。セットもさることながら、一幕は説明をせず、山南さんの心象とショーのような新選組の歴史。二幕は本来の歴史の流れから離れてしまったが故に、観客の共通認識から逸脱していることに自覚的で語りが入るので、一幕と二幕の味わいはちょっと違うなと思う。

山南さんの抱える業や役目、見捨てられないものがたくさんある立場は前述の通りとても魅力的な人である一方で、そこを掘り下げる時間よりも新選組のエピソード消化を優先されているように感じる。こちらも前述の通り居場所描くが故に入れたかったのかもしれないが、一幕は特に山南さんや羅刹のみんなが歴史の裏でどういう動きをしているか、どういう葛藤を持っているかに対してもっとフォーカスしてもらっても良いと思う。また、これは真改斎藤篇を観た時にも同じようなことを言っていたと思うが、歌やダンスが占める割合が高すぎるのではないだろうか。気持ちの昂りや心の動きに対し歌があるわけではなく、とにかく満遍なく歌唱曲があり曲とシーンの終わりがシームレスなので、見せ場として強く印象付ける作りにはなっていないと思った。

真改斎藤篇よりさらに、誰を魅せたいのかがはっきりしていない。同時に板の上にいるキャラクターの人数、採用されるエピソード。長く同じシーンで歌えば歌うほど、山南さんと千鶴や、山南さんと平助や土方さんに割ける時間は減っていくのだからどんどん取捨選択していかねばならないし、山南さんが主役であるならもっと山南さんを主役として扱うべきだと感じた。

これは提案だけど、もう歌わなくて良いのでは? 歌わずに群像劇として脚本を書いて、「はらり」とか「十六夜涙」とか「花びらの刻」とか「舞風」を要所で流せば良いのでは?

配信で見たのが良くないのかな。

ひとつ書き忘れたので追記。

吸血と終わり方がたいへんに宝塚歌劇的で、やっぱり宝塚で観たいなと思った。

*1:気にしなくても良かった。誰も気にしてなかった。腕のことも羅刹のこと関係ないさ。腕が動かなくたって、刀が振れなくたって、俺たちの仲間だ。俺も山南さんも、羅刹になった今だって。