サニーサイドアップフォーチュン

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感想『Being at home with Claude 〜クロードと一緒に〜』

Being at home with Claude 〜クロードと一緒に〜

 

クロードと一緒に、私は初見のため現地で聞いた限りは「イヴ」だと思ったのだけど、みなさんが「イーヴ」と呼ぶのでそれを踏襲する。また、追記するかもしれないが、とりあえずある程度思っていたことについては書いて早めに更新する。

イーヴの愛の形は性行為やキス、一緒に食事をしたりすることだけでなく、イーヴが晒されて来たあらゆる苦しみと困難からクロードを遠ざけることも含まれていて、それ故の選択であるということが理解できた時のどうにも苦しいあの感覚。また同時にそれらを成し得たあと、残された唯一の肉親を慮ったであろうイーヴの微かな抵抗、クロードと己の関係について秘する健気さ。もちろんそれはクロードのことを殺すことで彼の尊厳を守ろうとしたのと同じく、関係を秘密にすることで彼の名誉を守ろうとしたのもそうだし、秘密にすることによって彼と自分の世界が完成するのもそうなんだと思う。

イーヴが手に入れた判事の部屋の鍵は、彼が取った客のうちの一人、あるいは彼の生活圏内に判事がいたということであっている? イーヴがそれを利用しようとしたのは、判事が“法”を犯していることを利用することの意味だと理解した。

イーヴは絶望しきるには若すぎて、クロードとの全てに希望を感じているのが伝わり、だからこそそういういっときの感情に任せた行動ができた一方で、希望に全てを賭けるには世間を知りすぎていたちょうどどうしようもない年齢だったんだろうと思う。もちろん諦観していたとして、それがクロードの死を避けることにつながったとは言えないと思うけど。

イーヴの愛についての側面と、それを阻害する社会の構造的な差別問題があって、その構造側の刑事の態度がまた辛くある。イーヴの社会階層、属性、状況全てを下に見ており、さらにそれを隠しもせず、声を荒げて威圧しようとする。手段を変えて迫るでもなく、ひたすらに威圧によって征服しようとする様は警察組織への刑事の信頼の成せる技だと思う。まさに権威主義的であり、構造そのものへ迎合した存在であることを示してくれる。

ということを考えていると、聖書なりモントリオールの歴史なりを調べなくてはならないと思う。同性愛者への差別が、社会の構造の中に当然に組み込まれているというのはどういうことなのか。それを規定するものがなんなのか。

 

ところで、演出だとかお芝居だとかの話をすると、個人的に『ライトハウス』が本当に苦手だった身としてかなり刑事とイーヴの怒鳴り合いが辛く、前述の通り不快感を隠さないタイプの怒鳴り方でずっとしんどかった。

イーヴがクロードとの関係を秘密にするのをやめたあたりから、演者の身体の使い方が変化し始めるのが理解できて、そこはやはり松田凌の上手さであると思ったし、同時にそれを演じるということの暴力性について考えた。