サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

感想『オーシャンズ8』『映画刀剣乱舞-黎明-』

オーシャンズ8

もうほんとに最高だった。見てる間ずっと笑顔だったし、カッコ良すぎる。躊躇なく展開バレするが、ドレスアップしてみんなが会場から出て行くところがあまりに最高な気持ちにさせてくれるし、デビーが見つめる先でドレスアップしたルーが現れるところは全く計画の内ではないが最高のシーンで声が出た。とにかく8人全員が素晴らしいし、境遇や現実、その他いろいろあることをほんの僅かに漂わせながらも、ズバズバとやりたいようにやっていく8人にとにかく痺れる。衣装から性格から何もかもルーが好き過ぎる。でもダフネのキュートで大胆で頭が回るところや、ナインのサラッと本名バレする妹に甘いところ、なんだかんだ言いながらもう計画に興味津々でノリノリなのが態度で隠せていないタミーのおかしさ、全然気取ったところのない不器用なクリエイターのローズ、コミュニティから外に出ることを願ってる夢みがちなアミータ、意外と実直に仕事をこなしチームでやることが楽しそうなコンスタンス……全員が大好きになる。

気持ち良さのために大味感はあるかもしれないが、スカッとするしキラキラしているし元気になる。本当に楽しい時間だった。

 

刀剣乱舞-黎明-

一作目の方が遥かに面白いです。『黎明』の方が良いことと言えば咲月くんが格好良いことと、スカイツリーがいっぱい映るという資料的価値くらいしかない。元々『継承』から比べると別にいわゆる「東映特撮」的でない中で、前作が展開で戦隊感・ライダー感的な由縁や関係による物語の高まり方を見せていた一方で、『黎明』にはそういう「刀同士」「顕現すること」「逸話」みたいな部分へのこだわりが全く感じられない。前作で話題になった「東映特撮感」はVFXでも、いわゆる「扮装」した状態の人間がたくさん戦うことでもなく、そういう逸話とゲーム上のエピソードの積み重ねによってもたらされるキャラクターの変化と関係、その上での集合名乗りだと思うので全然そういう楽しみ方もできない。そもそも「六振りで出陣する」みたいな根本的なゲームシステムについて活かそうという気もない脚本であり、必要なのは個々のキャラクターとしての刀剣であるというのを隠すつもりもない部隊編成の時点で、正直そういう楽しみ方について期待もしていなかった。ニチアサを感じている人は、一体どこに感じてるんだろう。

そういう前提となるゲームシステムや逸話を活かすつもりもないのに、「想い」「仮の主」とかいう制度が導入されて、最終的に「全ての人間が審神者となる可能性を秘めている」みたいな“ゲームシステムに則って上手いこと言いました”みたいな感じなのも全然良くない。直前で実弦が「黒田」と名乗った“逸話を忘れてませんよ”みたいな展開に対して相反するとしか言えないし、この映画で重要なはずの琴音の生来の能力設定についても無視した新規ユーザー勧誘セリフでしかない。いろんなユーザーがいればいろんな審神者像があるよね、みたいなところを汲んだつもりかもしれないが、そんなことは別に今更言われることではないと思う。映画には映画としての本丸のあり方、物語を期待しているのであって、いろんな本丸のいろんな刀が見たいというわけではないし、もっと言うといろんな審神者が見たいわけではない。

この「想い」とかいう謎にコレクタブル出来る制度も良くない。どういうルールで集めることができるものなのかも説明されず、ただ伊吹が上手いこと集めてるのも謎だし、この「想い」についても扱える仮の主が伊吹と琴音だけなのもよくわからない。こういうことに説明を割かないくせに、各々のパワーアップシーンや琴音の能力使用シーンには時間を設けるせいで、こちらが理解していない謎の制度に対して発生する時間が長くなりストレスがすごい。

刀剣男士の映画を観ているはずなのに結局人間サイドのシーン描写に時間をかけ過ぎており、それが刀剣男士との物語として良いケミストリーを生まないものだから特に楽しいとも思えない。山姥切国広は記憶を奪われただけで自分が三日月宗近との戦闘中に言っていた「歴史から取りこぼしたもの」への感情で伊吹に従っていたわけではないのであれば、作中で山姥切国広自身として発生するであろう矛盾を無視しているし、そこへ結論を設けない作りは記憶をなくした山姥切国広が守ろうとした伊吹の尊厳、伊吹の物語への語りの放棄だと思う。

最後に集まる刀剣男士たちの扱い方も下手だ。前作のような嬉しさもなく、ただノルマのように集められている割に勢力としても微妙な量。そして謎に応援するかのような姿勢でその姿を見つめている通行人たち。刀剣男士たちを歴史を守るヒーローとして描きたいのかもしれないが、あそこにいる全ての人間が「歴史があるがままにあること」を願っているかどうかなどわからないし、「歴史をあるがままにすること」への葛藤とその結論を伊吹の心変わりだけに押し付けた実に今作らしいシーンだと思う。それでも応援したい、それでも戦いを見届けたいとたかが通行人に思わせるほどの熱いものを、私は感じていないので違和感がある。

伊吹の描き方、被虐待児である彼への結論の出し方も覚悟がないというか、登場させたなら描き切るべきだと思うのに前述の通り彼の精神性でのみどうにかケリをつけるようなあり方に、まるで誠実さを感じなくてストレスだった。琴音という恵まれた側の人間からの説諭のみにより伊吹が被ったであろう多大な不利益へ彼が結論を出すなんて出来るか?弟の想いとは?ボールの付喪神?「やまない雨はないより先にその傘をくれよ」じゃないのかなこれは。