サニーサイドアップフォーチュン

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感想『君たちはどう生きるか』

君たちはどう生きるか

あちらこちらで泣いてしまった。

物語として眞人の癒しであり、受容の話であり、母の話であって、メタ的に創作してきたものの話であり、出力の話であり、これからの話であると思った。まず大きな印象として、宮崎駿というクリエイターは全然すべてを畳む気はないというか、まだまだ諦めていないからこそこの映画が生まれたと感じたし、見ている側に対して問いかけをするとかそういう感覚もあんまりなかった。自分はこうしてきたのだ、これからはまた別だという映画のように思う。実際今後の去就についてどう考えているのかは知らないが……。なんだか「集大成」とよく聞いたけど、個人的にはあんまりそこにしっくりこなかったという話から入りたい。

眞人に後継を期待する大叔父の生涯と並行して存在する眞人の世界が、宮崎駿という人が知る世界から出力されたものであることが強く察せられるからこその集大成っぽさだと思う。宮崎駿から誰かへの継承とも受け取れるからだ。でもそこに個人的に諦めを感じなかったのは、これまでの宮崎駿監督作品のセルフオマージュを繰り返しているのがこんなにはっきりとわかるのに、眞人というキャラクターを通すと全てが攻撃的で醜悪で残酷だったからだと思う。冒頭の空襲警報、病院の火事、そこに駆けてゆく眞人の動揺と必死さの滲むぐちゃぐちゃな視界の恐ろしさ。このシーンで、これが有終の美のためにあるものではない気がしてならなかった。単純に何かを、誰かに託すために作られた物語ではないように見えた。

眞人があの時東京で見て来たものは、あるいは引っ越して見て来たものは。宮崎駿監督が見て来たものから出力されているはずで、境遇にもどうやら深く反映されているらしいことは公開当時よく目にした。そうであるなら、眞人という少年が現実で経験し見聞きしたことや性質に対して、塔の向こうの世界ではとにかく美しくて生き生きとしたものに変化して、それで最後に崩壊して終わっていくのがすごい。監督は見て来たものを美しく表現することができたのに、それを自分で壊すことにしたということだと思う。

だから眞人を誰か別の相応しい人、大叔父を監督自身とみなして安易に何かを伝える物語であるとは、あんまり思えなかった。かつ、眞人が今を受け入れてまた未来に向かって進み始めるのだから、監督もこれまでを置いてまた次に行くということのように思えた。

 

これまでのジブリ作品、というか宮崎駿監督作品の「お母さん」ってあんまり印象ないというか、オソノさんとリサくらいしか思い付かなかった。お母さんがいなくなって、新しくできたお母さんと家族になるという眞人の物語として、死んで行ってしまった母もまた、いま現在で育む母と同じように苦しみ、みたいなところもあると思うのだが、あまりにも前述したような背景の物語が強すぎてその辺のことがなかなか難しい。

母を亡くすということや、戦争によって他の家より潤った生活をしていることや、そういう境遇に対して眞人が淡々としているのにどうにも当たり前としてられないように見えるのが、多分その監督の持つ背景情報から組み立てられたストーリーの中で「今現在の」監督と同じ目で見ているのが眞人だからなんじゃないかなと感じた。

こういうふうに考えると、本当に個人的なところからスタートしている映画なんだな。

好きだった描写として、現実の不味そうな食べ物も塔の中の美味しそうな食べ物も、人間は食べればトイレに行きたくなるし、鳥はどっちの世界でもでも飛び立つ時に糞をする。食って寝て泣いて血を流してうんこして生きていくしかないんだ、生き物は……というところかな。