サニーサイドアップフォーチュン

映画、特撮、演劇、ダンスボーカルグループ

ミュージカル『LILIUM 少女純潔歌劇』感想

ハロプロから舞台のオファーあったとしてもこの脚本を提出する根性が私にはない。

舞台『TRUMP』2015年版感想 - 夜明けの星を待ってる

クランなどという厄介の集合体に関しては、本当にやめたほうがいい。作るのをやめたほうがいい。繭期などというめんどくさい年齢の吸血種を集めるのはやめたほうがいい。

 

シルベチカを探すリリーを見て、わたしは『TRUMP』を経た善良な観客なので「また猫なんじゃないだろうな」と疑った。けどシルベチカは猫なんかじゃなくて、どちらかと言えばリリーがお人形だった。

そう、『LILIUM』の大きな、そしてもっとも厄介な問題はそこにある。

マリーゴールドが友情を拗らせているとか、スノウも友情を拗らせているとか、キャメリアとシルベチカとかそういうことではない。

問題は、ソフィの孤独*1が三千年も続いていることだ。

ソフィの孤独が癒えないのは、クラウスと違ってソフィがウルの友情を知っているからだ。クラウスはアレンの心を一度も手に入れることなく、アレンはそのまま死んだ。アレンの友情を知らないクラウスはソフィが追ってくるだけでも満足かもしれない。だけどソフィは違う。ソフィは友に、友として求められることを知っている。その孤独はウルでしか癒せないし、その孤独を耐えるために寄り添う新たな友も得られなかったことが問題なのだ。このソフィは、きっとどこかでまた同じように沢山の吸血種を巻き込むんじゃないか――永遠の厄介、繭期なのだから。

この『LILIUM』の悲劇は、構造として『TRUMP』のリフレインと言えるところも多いけれど、これを突然見せられたハロプロのオタクの方たち、当時大丈夫でしたか?

もう全然意味わからない因果を急に見せられたわけだし。ファルスは、ソフィは単なる黒幕*2じゃないんですよ。

ところで、マリーゴールドというタイトルの続編があるわけだから、彼女の過去についてはきっとそこで描かれているのかと思うのだけど、とにかく彼女が重い*3マリーゴールドがずっと疎まれてきたことに対して、わずかなリリーの優しさがどれほど響いたかというのは、ソフィとウルのそれよりもずっと一方通行だ。実際、リリーはそれに対して慄くようなしぐさを見せていた。かつてリリーとスノウが友人だったように、マリーゴールドはそうなりたいのかと思っていたけど、もうそこまで求めてこないで勝手にリリーに与えよう、リリーにこうあってほしいと行動するから危ないんだよな。スノウがリリーに対して何の関与もせず彼女を守ろうとしたのと反して、マリーゴールドのそのお節介さは直接的に目に見えるからこそ、観客に異様に映る。

永遠に枯れない美しい花を求める物語を、花の盛りの少女に演じさせるということの業を感じる。それもアイドルに。スノウの死への恐怖が、ファルスへの従属を選ばせたように、私たちアイドルオタクが推しアイドルの永遠の美しさを願う気持ちを捨てられないことを、まざまざと見せつけられている気持ちだ。

リリーはファルスの――ソフィのお人形で、友達ではない。『TRUMP』でソフィをクラウスが置いていったように、リリーもまたソフィの孤独を癒すかもしれない存在として彼を追いかけるのだろうか。けれども追いかけた先には結局、TRUE OF VAMPでなければ死を与えることができないという事実だけがある。そういったことを何もリリーが知らないとしたら。ソフィのようにアレンの血族でもないのだから、本当にただただソフィの実験で生まれた哀れな人形じゃないか。そのリリーがイニシアチブを使って、人形のように仲間たちの命を絶つことのつらさ、一人残されることの悲しさ。

永遠に枯れない花、それを求めた庭師の話か。これ今後出てきますね? さすがにちょっとわかってきたぞ。

 

*1:『TRUMP』だって問題はクラウスの孤独がうん千年と続いていたことだ。しかし、わたしはソフィ・アンダーソンという人を愛してしまったので、ソフィに肩入れする。

*2:しかしこのファルスこそがソフィであるという描き方は、キャストが違うからこそ出来る。舞台ならではだ。

*3:性格的に、という意味で。